エピソード・ルクシルヴァ
大樹があった。
深い森に囲まれたその場所には、大地と繋がった大木が立っていた。大地と繋がった、とは、根差している状態のことだけではない。大地に埋まった根は、土と石の中間のようなもので、幹や枝になるに従って、岩のような硬質なものになっている。葉も、薄いが硬い鉱石のようだった。『石の樹(アルボル・サクス)』と呼ばれる、大地神の現世(うつしよ)の姿だ。
神の化身を見たメーティス軍が驚き、遠巻きに眺める中、その男は樹の幹の傍らにいた。黒髪に青い目の騎士――フェリクス・パドルだ。
(愚かしい……獣の欲望と神の知恵を持ったずる賢い人間(ネイミ)……)
フェリクスが幹に触れると、頭の中に直接、声がした。男とも女とも取れない、形容しがたい声だ。ふと傍から上を見上げてみる。この樹が、『石の樹』が喋っているのだ。
「愚かしい、か……」
(そう、そのように作ったのだ。アウロ・セレスが退屈しないように)
天空神アウロ・セレスの名に、彼は、神話が現実だったのだと驚いた。メーティス王国に伝わる神話唄そのまま、大地神は自身が殺されるのを恐れ、天空神が退屈しないように人間を作ったようだ。
神話の時代に触れ、フェリクスは果てしない感覚を味わった。
(私は、私が壊されることを恐れていたのではない。
アウロ・セレスを独りにすることを恐れた。
私を壊したところで、あの人の孤独は埋まらない。……そう、あの人があの人で在り始めてから、在り続ける限り、孤独が埋まることはない……。
私はここから動けぬ。あの人に触れられぬ。ならば、この遠い箱庭で、人を争わせ孤独を癒そうと、そうしたのだ)
最初に孤独に涙したのは、天空神だった。神は、涙から生まれた大地や動植物で遊んでいたが、直接触れることができないそれらに退屈して、大地神ごと世界を壊そうとした。
だが、神である以上、天空神は触れることも触れられることも叶わないのだ。大地と、世界と離れた場所で、一人で眺めていることしかできない。
その点、大地神は人々や眷属である動植物とも距離が近しい。天空神の箱庭そのものであるから、箱庭の中のものに触れられた。
「三行半を突き付けられた無様な旦那かと思っていたが……」
フッと口の端をつり上げ、フェリクスが笑った。彼には大地神がそう映っていたのだろう。
「獣の欲と揶揄されようと、獣人(マンマリャ)と、『半端モノ(レタツォ)』と同じ作りの身体であろうと、それで愛した誰かと触れ合えるなら、どこぞの神より余程、俺は好きだね」
フェリクスが挑戦的に、その樹を見上げる。人間(ネイミ)を完全な生物だと唱える学派と、しかし獣人たちと同じ生殖方法、身体の作りだと異議を唱える学派がいる。彼自身は、どちらでもいい。自分の家族が、エストレリャとマリソルが、幸せであるのなら、そうして一緒に暮らして触れ合えるのなら、『半端モノ(レタツォ)』と同じだと言われても、何も問題はない。
「踊ってやるよ、箱庭で」
幹から手を放すと、声は聞こえなくなった。彼は、剣を掲げる。使い込まれた両手剣の一太刀。
「だが、人が踊る劇の途中で、神さまが倒れると言うのも面白いだろう」
次の瞬間、フェリクスは『石の樹』を一薙ぎしていた。両手剣だけでは幹の幅にも届かぬが、その一閃で、硬質な大木は倒れ始めた。
(な――!?)
再び、倒れ行く幹に手を当てると、驚いている声が聞こえた。ザザッと雑音が入る。
「貴方の眷属を祖に持ち、貴方の血で生まれた俺たちだ。血をあげすぎたんじゃないか?」
『半端モノ(レタツォ)』の能力が隔世的に発現し、大地神の血の力が強く作用すれば、『石の樹』を倒すほどの力が生まれるのは、不思議ではない。メーティス自体、多くの人間の部族と交わって生まれた王国だったため、様々な血が入り、能力的に強い人間が生まれていた。フェリクスはその、たぐい稀な一人だった。
大樹が倒れるのを、離れたところにいた軍は愕然と見ていた。ある者は神を超越したと喜び、ある者は神が死んでしまったと嘆き、喜びと嘆き渦巻く驚きの中、フェリクスの血塗られた英雄としての道が始まった。
彼は、知らなかった。この後に待つ孤独と羨望と嫉妬と非難と、黒い黒い感情の嵐を。それに耐えられずにいた、妻のことを。必死に支え合う両親に弾かれた、娘の孤独を。
『結局、何が守りたくて戦ってたのかねえ、俺たち』
本当に守りたかったものも守れずにいた自分に、彼の友人はそうぼやく。そうして守りたいものを守るべく出した軍役引退宣言によって、英雄は、フェリクス・パドルは、殺される運命になる。
それは、これよりずっと、先の話。