エピローグ
ボカの街に、早春の風が吹き抜ける。内海からの風は冷たく、暖かいボカはまだ少し先のようだ。
その見晴らしのいい閑静な住宅街にある屋敷――かの英雄の屋敷に、大きな声が響き渡る。
「マリソル様! 今月の失業率は先月を上回りましたよ! 早急に手を打ちましょう!
あと、市壁の改修工事の騒音に苦情がきています。近所の住民のケアを――」
「わかりました! ちゃんと考えますから!」
同じくらいけたたましい声が聞こえ、館から少女が出てきた。マリソルだ。あの頃に比べ、化粧は大分薄くなった。服装を見ると、ヒルベルタ・ファッションまでいかなくとも、派手好きは変わっていないようだが。
「よう、いろいろ頑張ってるね」
傭兵が屋敷の垣根の隙間から声をかけると、彼女は驚き半分喜び半分の顔で、すぐに駆け寄ってきた。
「おっさん!」
呼び方は相変わらずだ。
少女に表の鍵を開けてもらい、男は庭へと入ることを許される。そのままテラスのテーブルに通され、話をすることになった。
「ボカもまた変わったね。
あれから半年になるもんな……」
英雄フェリクス・パドル殺害事件から、もう半年だ。あれから、多くのことがあった。英雄暗殺の犯人としてヴェルデが逮捕され、それからアルマスの評判は地に落ちた。ルアナも関与していたとなり、再建は難しい。マリソルも証人として迎えたヴェルデの裁判も終わった。極刑だった。王国の地位ある者の殺害だ、当然だろう。
だが、彼女には腑に落ちないところがある。父の事件が終わっても、世界は何も変わらないのだ。戦争もなくならない、武器商人もいなくならない。おそらくアルマスの考えていた植人(フランタ)を使った兵器も、そのうちどこか別の商人が開発し直すだろう。戦争がなくならなければ、農民たちは徴収に喘ぐばかり。どの地も収穫はそう伸びていないようだ。植人が逮捕されたこともあり、あれから植人への弾圧も強まっている。
世界は、変わらない。それどころか、悪くなっていることさえある。そうマリソルは感じていた。
「俺から見たら、ボカは悪くなっていない、そう思うよ」
セフェリノを跳ね返してフェリクスの遺産と権利を手にした彼女は、実質ボカを統治する立場にいる。知り合いの傭兵にそう言われ、少し安堵する気持ちと、身内に褒められたのだからと気を引き締める思いとで揺らぐ。
「よく頑張ってるよ」
「それは、みんなのおかげだよ」
褒めるディノに、彼女は真顔で首を横に振った。
「ヘラルドさんが紹介してくれた学者の人が手伝ってくれたり、議会や自警団が協力してくれたり、お祖父ちゃんが政治について助言してくれたり……そういうのがあるから、できてるの」
あれからマリソルには、多くの者が手を貸している。まだ十五の娘だ。されど英雄の後継者であり、ボカの統治者だ。ヘラルドは知人の識者を紹介して、彼女の手助けに回してくれている。当時は困惑し、消極的だった議会と自警団も、だんだんと協力的になってきている。そして驚くことに、セフェリノが助言を書いた手紙をよこすというのだ。
「セフェリノ伯が?」
それには傭兵の彼も驚いた。
「そう…………見合い話と一緒に」
言いにくそうに、少女が答える。なるほど、孫娘の世話を焼きたいわけか、とディノはにやける口元を隠した。
そしてようやく、この屋敷へやってきた用事を口にした。
「そうそう、報告」
男の言葉に、マリソルの視線が鋭くなる。姿勢もわずかに緊張していた。
「デンタ村でやってる植人(フランタ)発想の農業方法だけどね、うまくいってるよ」
「本当?」
縋るような少女の問いに、ディノは力強く頷いた。
マリソルが言い出したことだった。作物の不作や徴収で貧困に喘ぐ農民の手助けを、何かできないかと。そこで目を付けたのが、奴隷身分の植人たちを主とした『半端モノ(レタツォ)』たちの農業技術だった。どうすれば豊作になるのかわからない。大地神を父が倒したせいで、もう取り返しのつかない事態になっているのかもしれない。だが、何でもいいから始めなければ、良いことだって悪いことだって、何かが起こることはない。
そこで、マリソルの持つ遺産から資金を出し、農業の改善や農民への援助を行っているのだ。ただ、あまり表だって名前を出せば、他の貴族たちから非難や嘲笑を受けることになる。それでは貴族社会の中で十五の娘は居づらいだろうと、ディノを通じて匿名で行っているのだ。それも義賊っぽくて面白いと、演劇好きの少女は笑った。
「ちゃんと一歩ずつでも、進んでるんだよ」
「あんのクソオヤジの尻拭いだけどねぇー」
デンタ村の教会の司祭が書いた報告書を、彼はマリソルに渡した。彼女はそう言いつつも、嬉しそうにそれを見ている。
「喜ばしいことじゃないか」
「まあねえ……う~、匿名だけど、でもやっぱり褒められたいなあ!
別にそのためにやってんじゃないけどぉ~」
匿名だからこそ、農民や村の者たちから直接、名前を呼ばれて礼を言われることはない。だが、褒められたいと思ってしまう。もう子どもではないとしても。その称賛のためだけに行っていることではないが……少女の葛藤である。
「褒めたげようか?」
「また子ども扱いして」
「じゃあ、レディとして扱おうか?」
と、傭兵は椅子から立ち上がり、彼女の跪いた。「お手をどうぞ」ディノが手を差し出して、そのままニヤニヤ笑うと、マリソルも吹き出して笑ってしまう。
「うむ、キショい」
偉そうにふんぞり返って、少女はゆっくりと頷いた。
「ひゅー! マリ~!」
その時、垣根の外から、アニタが声をかけた。ちょうど開いている隙間から覗いて、中の友人に満面の笑顔で手を振る。
「アニタ!」
手を振り返すと、何か囃したてるように口笛を吹きながら、彼女は去って行った。前を通ったから、挨拶をしただけのようだ。だが、それだけで少女はとても嬉しくなる。
落ち着いて座ったマリソルの顔を見て、ディノは眩しいものを見るように言った。
「笑顔が一番の報酬?」
え?と、はにかんだ笑顔のまま振り返る少女を見ていると、街の人の笑顔が活力になっていることはよくわかる。デンタ村の報告だけであんなに喜んでいたのだ。直接交流があるボカの街の者から、たくさんの元気をもらっているのだろう。
先程の彼の言葉に、マリソルはまた破顔した。輝くばかりのその笑顔に、ディノは再び目を細める。
「まあね」
素っ気なく言ったつもりなのだろうが、声が笑っている。その顔を見て、傭兵の男は、友人と会った時のことを思い出した。あれは、その男が死ぬ、数日前。ともに飲んでいる時に、娘のことを形容して言ったのだ。
『太陽みたいな子なんだ』
あの時の、フェリクスの顔を憶えている。少女の太陽の笑みは、それと少し重なった。今思えば、あれは金髪に染めた髪のことを言っていたのではなかったのだ。
この顔のことか。
ディノは、そう心の内で呟いた。太陽の少女は、愛する故郷を、その眩しい笑顔で見つめていた。