第三章 05
『カフェ・オイエンディア』を出て、再び気を張って歩く。敵方に見つかっていないか、辺りを適当に見回すふりをして、警戒を怠らないようにした。
周囲を見ると、裏路地や市壁の下に、乞食がほとんど見当たらないことに気付く。それらは浮浪者の溜まり場で、彼らの小屋の撤去作業や、追い出し作戦など、様々な政策が取られた。その彼らがいない。救貧院を建てたとか? あとは単純に、工場の働き手として住み込みで雇ったのだろう。
「フェリクス・パドルの暗殺に、意義はあったのですっ!」
突然、耳に飛び込んできた語気の強い声に、マリソルは反射的にそちらを向いた。広場で、ローブを纏った大地神信仰の司祭が説教をしている。
少女は不自然ではないように、太陽の光が眩しいという仕草をしてから、ボレロのフードを被った。
「この街は、彼がいない方が良くなった! 浮浪者に失業者、どうですか!?
これは、彼が『石の樹(アルボル・サクス)』を倒したことへの罰なのです!!」
声高にそう説教をする司祭から視線を逸らすと、マリソルは再び歩き始めた。日陰に入ったところで、フードを取る。元々、大地神信仰の教会には近づいたことがなかったが、もし万が一、顔を知られていたら厄介だったから、こうしたのだ。
教会近くの広場まで歩いて来たなら……と、彼女は自宅を見に行くことにした。近くに寄ったり、中に入ることはさすがに目立つだろうが、遠くから眺めるくらいなら大丈夫だろう。ディノの手術は無事に進んでいるだろうかと、ふと思い出す。家を飛び出したところで出会った。あれが始まりだった。
ゆるい坂道を上っていくと、閑静な住宅街の一角に、パドル家の屋敷が見えた。それ以上は近づかないように、別の道へ進みながら、遠巻きに眺める。
あの頃と、変わっていない。入口に鎖がかけられている以外は。犯人も捕まっていない、家主の娘も行方不明、だから立ち入り禁止なのだろう。彼女は自分の部屋を思い出す。あまり整頓はしていなかったし、夜遊びをして寝に帰るような場所だった。それでも、思い入れはあった。
ふと気付くと、封鎖された門扉の下に、花が添えられている。街は変わった、それでも父の死を悼んでくれる人はいるのだろうか。
ゆっくりと歩いて、マリソルは別の道に入り、自宅の屋敷から背を向けた。坂道を下り、波立つ心を整理する。
自分が離れてから、この街は変わった。自分が変化したというのも、きっとあるのだろう。だが、それ以上に、街自身も変化している。浮浪者や乞食が減り、治安も良くなった。リノたち働き口がなかった者も、アルマスの工場に雇われ、無職の者や失業者が減った。良くなっている。マリソルが見ても、それはよくわかった。
――できるんかな。
その思いが、胸に過ぎる。ここへ来るまでは、少なくともデンタの村でヘラルドたちにボカのことを聞いた時は、アルマス商会と祖父セフェリノのやろうとしていることを止めようと思っていた。フェリクスの遺産と権利を手にし、彼自身を殺したであろう兵器を作ろうとしているのだと、そう思っていたからだ。実際、リノとアニタから話を聞いても、戦争のための武器をボカで作ろうとしていることはわかる。
だが、街は活気が増し、乞食や失業者など負の者は減っている。アルマスがどう、議会や街の政治に関わっているかはわからない。しかし父が死に、アルマスが街に来てから街は良くなっている。それが、自分が好きだった故郷とは、違っていても。
マリソルは、自分の故郷で兵器を作るのなど、許せられない。それが父を殺したものなら、なおさら。父を殺した植人を、ボカで兵器を作るアルマスを、『ぎゃふんと言わせる』つもりでいた。だが、それができるのか? 彼女の心の中に、逡巡が生まれた。
内海の潮風に煽られた顔は、塩辛いものを舐めたようなものだった。街医者のいる下町に向けて歩きつつも、整理がつかず、まだ帰れないでいる。路地に入りこむと、そこは人のいない小さな小さな広場だった。下町の家々の屋根の向こうに、海が見える。
何か叫びたい衝動に駆られた。マリソルは、すうっと腹に息を吸い込み、片手を伸ばした。
「海を見る!
故郷は遠く 小さくて
消えはせぬかと 不安なり
そのために今 前を向き
守らんとする 我が身と剣!」
言葉にならない叫びなどではなかった。それは、小さい頃から続けていた、苛立ちの解消方法。
それでも、躊躇いは、不安は、消えはしない。
両手を空に突き出し、次の詩を詠う。
「天仰ぎ!
太陽輝く 青空も
星の瞬く 宵空も…………」
そこで、マリソルの声が止まった。
青い双眸が、唱えていた口が、掲げていた両腕が、そのままに、ぴたりと静止する。
――見えた、今。
幼少から意味を考えずに暗唱してきた詩が、今、見えたのだ。
太陽の輝く青空が、星の瞬く宵の空が。
それは、この街から眺める、空の色だった。
「……見えぬ 遠い地
故郷(くに)恋し
曇らぬことを
切に願わん……」
ボカの街の高い場所に、広場がある。そこから見る、大きな空。そこだけじゃない。ボカのどこにいても、見上げれば見える広い空。父は、この空を、故郷を、恋しがっていたのだ、遠い地で。
そして、彼女は、父の詩に何度も登場する天体に、初めて気が付いた。
「太陽(ソル)……星(エストレリャ)……」
マリ『ソル』と母・『エストレリャ』。髪を金色にした時に言った言葉、「ソルみたいだ」。何故、気付かなかったのだろう。ずっと長いこと、暗記していたのに。言葉だけを叫んで、意味なんて見ていなかった。そこに隠された、家族の肖像も。
その詩は、確かめるように、ぽつりぽつりと落ちる雨粒のように、静かに詠まれた。
「ボカの太陽 思い出す
眩しい光 燦々と
輝く空が 恋しくて……。
星指し示す 方角に
愛しい故郷 あるのかと思う……」
確かに、このボカは内海に面した港街で、日差しが眩しい。だけど、もし、それだけじゃない意味が、そこにあったら。その先のことを思うと、言葉にできない代わりに、少女の瞳から涙が零れた。
内海を隔てた遠い戦地から、空の星を妻と思って見上げていたのか。守りたい国、故郷のことを、愛しいと、恋しいと、そう思いながら戦っていたのか。ただ、植人から首飾りを奪ったり、人々を殺めたり、それだけではない温かさも、その詩にはこもっていた。人々を殺し、首飾りを奪ったのも父なら、星や太陽を見て家族を思い、故郷を恋しがっていたのも父なのだ。どちらかだけではない。そして、マリソルが見ていた小動物のように静かで、憔悴しきった父。それも父だった。多くの面を持つ、一人の人間だったのだ。ただ、それだけのことだったのに。どうして、今まで……。
堪え切れず、堰を切ったように涙が溢れた。
だから、父も母も、傷ついた自身を互いで癒し慰め合っていたのだ。両親も一人の人間で、孤独や嫉妬、疲弊に耐えきれる人ではなかったのだ。気付くのが、遅すぎたのかもしれない。どうしてあの時、それをわからなかったんだろう。だが、わかっていても、きっと自分の寂しさや羨望は、埋めることができなかっただろう。子どもありきではなく、互いだけを支えあった両親だったから。
そう思うと、少し寂しいし、悲しい。母亡き後、父はどう娘に接していいのか、それがわからなかったのではないか。それでも、幼い頃からずっと、愛情を持っていてくれたのだ。詩に出てくる『太陽』の多さに、気恥ずかしくなってしまうほどに。
「パパ、ママ――」
思えば、父が死んだ現場を目撃し、ディノに会い、旅に出てから、涙を流してこなかった。悲しいなんて、思わなかった。それよりも、自分を大変な目に遭わせた父に、怒りを憶えた。その心は、今も少し残っている。「あんのクソオヤジ」、そう思うことだってある。
だが――
ああ、この街も、パパも、ママも、好きだったんだ、あたし。
そう気付いた時、震えるような不安や葛藤は、どこかに飛んで行ってしまっていた。わずかな切なさとともに、あたたかく穏やかな気持ちが湧いてくる。
どうして今頃、気付いたんだろう。
もっと早く、父も母も没する前に、気付ければよかったな。そんなことを思うと、また瞳からポロリと零れた。
潮風が吹き、頬の涙をカピカピに乾かしていく。この潮のにおいも、海の色も、眩しい空も、港も下町も繁華街も教会も自宅も……この街の全てが好きだ。自分が好きだった街で、いてほしい。
そのためには、アルマス商会に兵器など作ってほしくない。祖父であるセフェリノにだって、好きにさせたくない。
大切なものが何なのか、それを守りたいと思うのか。それがわかれば、心は自ずと見えていた。
涙跡の残る赤みを帯びた青い瞳は、空を見つめた。太陽が眩しい空。
「あたし この街好きだから
好きなものたち 守りたいから
……見ててちょうだい パパとママ」
あまりに拙い、詩とも呼べないような言葉の羅列。だが、厳かに発せられたよく通る声は、空の上へと届いただろうか――