第三章 02
マリソルたちがまだ、デンタ村とボカの間にいる頃――
ボカの街にあるアルマス商会の別宅の書斎では、ルアナが執事から報告を受けていた。
「早く新しい兵器を軍に納品するようにとの書状を受け取っております」
執事が手に持つ煌びやかな箱が、灯りの光をキラキラと反射する。その中からルアナに宛てられた書状を取り出し、彼は主人に渡した。彼女はそれに目を通しながら、執事の言葉を聞いていた。
「開戦してしまえば、犯人のことも、材料のことも、目を瞑られるでしょう。
家のためにも、お嬢様のためにも、都合がよろしいかと」
しん、と静まった夜の屋敷で、声を小さくして囁かれる。わずかな音量で耳打ちされるその言葉に、女主人であるルアナは、特に顔色を変えずに小さく頷いた。
「……そうね」
書状を読み終えると、彼女はそれを一度箱にしまい、執事を下がらせた。
これで『オーブ』を軍に卸すようになれば、アルマスも、また父の頃のように大きな商会に戻るだろう。いや、それ以上にだって。
ルアナは父が病気で伏してから、その看病の合間に、商売のやり方を一から学んだ。参考になる書があればそれを読み、父の教えを書きつけて、何度も復習した。彼女はこの家が、父と母が、大好きだった。ようやくできた子どもなのに、病弱な、しかも娘である自分を、愛情いっぱいに育ててくれた。子どもができなかったからこそ、か。
病床の父親に、言われたことがある。自分と、そして商会を全て任せられる人間であると判断したら、その人と結婚しなさい、と。父親は娘の意思も聞かずに許嫁をつれてくることもなかったし、婿をもらえと無理矢理に迫ることもなかった。一人娘だからと、好きにさせてあげようと、甘やかされていたのかもしれない。
ルアナは机の上を整理し書類を片すと、立ち上がった。部屋に戻ろうとしたのだ。
コンッと窓から音がする。振り返ると、そこにヴェルデが立っていた。
ルアナは窓を開け、
「とにかく、入りなさい」
何故、いつものように裏口から戻らなかったのか、少々不審に思いながら、中へ入る許しを出した。館の周りは壁で囲まれているが、窓から入るところを誰かに見られたら、何を言われるかわからない。
ヴェルデは窓からスッと音もなく入ったが、窓を閉め、その傍で跪いたままだ。奥の机の元で報告を聞くものだと思っていたので、そちらへ向かっていたルアナは、また引き返してきた。月明かりが、今日は薄暗い。
「マリソル・パドルと傭兵を襲撃しましたが、男女の二人組に邪魔をされ、殺害に失敗しました。こちらの傭兵三人も、身動きができない状態のようです」
「……そう」
ルアナは、特に感情を出さずに、報告を聞き流すような返事をする。
「邪魔に入った二人組のうちの一人に、私がアルマス家の植人であるということが知られました。ですので、しばらく屋敷には戻らず、暗殺の方に回ろうかと――」
ふっ、と跪いていたヴェルデの上に、影が落ちた。
反射的に顔を上げた青年のすぐ傍に、彼の主人の顔があった。報告をする声が途切れる。
ルアナは片膝をついていたヴェルデの肩口に、顔をうずめた。息を吸う。青い、緑のにおい。
「少し疲れました、このままでいなさい」
小さい頃から、ルアナはヴェルデの緑のにおいが大好きだった。部屋から出られなくても、ベッドから下りれなくても、外の草原に寝そべったような気分になれたからだ。植人は癒しの効果がある、というのは、きっとこのことだ、と彼女は思っていた。大人になってからは、していない。ルアナも小さな子どもから女性へと変貌し、植人の小さな奴隷だったヴェルデも、目立つほど大きな背の青年になったからだ。いくら女主人が『お人形』と言っていても、触れあっていれば嫌な噂がたちやすい。だけど、『戻らない』と聞いた時、何故か、子どもの頃のようにヴェルデの緑のにおいを嗅いでいた。知らぬ間に、腕は背中に回っていた。
「傍にいなさい――」
――お父様の言ったことは、守らなければならない。
信用に足る『人間』を、婿に迎えて結婚すること。そう、『人間』を。だから、無理なのに、それなのに、この青いにおいは、忘れられないだろう。
肩口に顔を押しつける女主人に、ヴェルデは報告ができないでいた。彼女のためにできること、それがマリソル・パドルの暗殺なのだ。その任務に、戻ると言わなければならないのに。
こんなに近くにいるのに、だからこそ、自分は植人なのだと、彼は思い知った。大きな自分に身を寄せる小さな彼女は、主人であり、そして人間だ。ヴェルデは自分が植人らしくないことを、よく知っていた。そう、育った自分を、よくわかっていた。だが、やはり自分は植人で、ルアナは人間なのだ。同じには、一緒には、なれないのだ。植人らしくない自分、だが人間ではない自分。ヴェルデは、その中途半端で何者にもなれない自分が、許せなかった。だから、せめてルアナの役に立ちたいと思ったのだ。
マリソル・パドルたちを殺さなければ――
二人の心には、同じことが浮かんでいた。そうすることが、自分たちのためなのだから。
月は薄い雲の中、暗い夜だった。