第二章 08
チュイの家の戸を開けると、そこには香ばしい匂いが充満していた。木でできたテーブルには豚の焼き肉とパン、スープに野菜が並び、とても農民の食卓とは思えない豪華さだ。
空腹のマリソルは、
「わあ……」
と、喜びの声を上げた。まさかこの辺鄙な村で、このような食事にありつけるとは思っていなかったのだろう。
裏口に置いてあった水で手や顔を洗うと、すぐにテーブルへと戻り、夕餉の開始を待つ。
チュイ夫婦には子どもがいないらしく、食卓にはチュイとその妻、そしてマリソルとディノがついた。四人分にしても、充分すぎる量だろう。
家の主は、まず首から下がったペンダントを握り、目を閉じた。妻も同じようにしている。
「大地神信仰の、食事前の祈りだよ。
同じようにして」
隣の席のディノは、少女にそう囁く。仕方なく、彼女も見よう見まねで、同じポーズを取った。
チュイは口の中で、何やら祈りを唱えている。マリソルは言葉の端々しか聞こえなかったが、それが、大地神への許しを請うこと、恩恵への感謝、そして食べ物を命のために活かすことへの誓いがこめられているように聞こえた。
その祈りが終わると、彼は目を開けた。祈りの声が聞こえなくなったところで、マリソルとディノも目を開ける。
家の主である農民は、ニッと笑って食事の開始を告げた。
「さ、食べるか」
その声と、ほぼ同時だったろう。バンッと破裂するような音が聞こえた。振り返ると、そこには家の扉を開いた村人たちが立っている。今の音は乱暴に戸を開いた音だったのだと、少女はようやく理解した。
食卓への闖入者たちに、マリソルやディノばかりでなく、家主のチュイも驚くばかりだ。
「どした? アダン、ゴイトも……」
家の中にズカズカと上がりこんできたのは、十人ばかりだった。アダンやゴイトというのは、先頭に立っている農民たちのことなのだろう。
「どしたでねえ。こーんなやづらに大切な食糧やっで。
こいじゃ、冬も越せるか、わかんねで?」
先頭に立つ村人の一人が、顎で豪勢な食卓をさして、そう言った。それとともに、不愉快な視線で二人の旅人を一瞥する。自分に向けられた嫌悪感丸出しの眼に、マリソルはムッとつい睨み返した。
「アダン、だがなぁ、こん人たちは旅の方だで?
旅人は大地神さまの化身だあ」
「その大地神さまは倒れたんだぁ!
『石の樹(アルボル・サクス)』さまが倒れたせいで、とれる作物はとーんと減っただよ」
先頭に立つアダンと呼ばれた農民は、嘆くとも怒るともとれない様子で声を荒げる。
それを聞いて、少女は喉がぐっと掴まれたように詰まった。『石の樹』を倒したのは、彼女の父親である英雄――フェリクス・パドルだ。何を言おうとしたのだろう。そんなことを、マリソルは思った。
「それなんに、隣国と戦うとかゆうて、国は作物持ってっちまう!
オラたちぁどやって冬越せばいいだ? なのに、なーしてオメェはこんなモン食ってんだ!?」
バンッと、アダンという村人の手が、食卓を叩いた。そう大きくない木のテーブルに並ぶのは、今の剣呑な雰囲気とは不似合いな、豪勢な夕食だ。
怒りを露わにするアダンや他の村人に対して、チュイは鼻から静かに息を吐いた。自身を落ち着かせようとするように。
「大地神ソルン・ヒュームさまは、倒れてなんてねえ」
「『石の樹』さまは倒れただあ!?」
「『石の樹』さまは倒れた! だが、大地神さまは生ぎておられる。そでなきゃ、作物どごろか、大地に住むものぜんぶ死んでまうんでねが?」
チュイは、胸に下がる大地神信仰の首飾りを、ぎゅっと握りしめた。神の存在というものは、信じられるが、そのままの姿を見ることはできない。ただ、大地とともに過ごし、作物を育て、刈り、その中で感じたことを言っているのだろう。現世の姿とされる『石の樹』がフェリクスにより伐り倒されたとしても、まだ大地神が死んだわけではないと、そう言葉を越えた感覚で感じているのだ。
それは、マリソルが今まで意識してこなかったことだった。十五年生きてきた中で、何かを信仰することなど、なかったのだ。もちろん大地神を信仰する大地神信仰と、天空神を信仰する天空神信仰があることは知っている。だが、神を信じるのは、わずかな確率に運を託す時や、嘆いて何かに縋りたくなった時くらいだった。本格的にミサに出たこともないし、まずボカでは、大地神信仰の教会へは近づけない。教会自体が、フェリクス・パドルの行いを咎め、何と罪深いことをしたのだと謳っているからだ。
「まあ……そりゃそかもしれねえよ? だがよ……」
村長の言葉に、アダンは勢いを削がれる。確かに大地神が本当にいなくなれば、作物がとれるとれないと言っていられないような状態になるだろう。
「その大地神さまの化身である旅ん方に振る舞って、なにが悪いんだぁ?」
「だけどよ、本当にこれで冬が越せるんか?
『石の樹』が倒れてからとれる量が減ってるんは、本当だぁ。
それに加えで国から徴収だで? もうオラは生ぎてげねえよ!」
そうだそうだ、とアダンとともにやってきた農民から、激しい言葉が漏れる。
「『石の樹』さえ倒れなきゃよ!」
そんな言葉も、中には混じっていた。マリソルの心に、ずしりと重くのしかかる。父がやったことの中でも、一番大きなことだろう。国の貴族の中には、メーティス人は神を超越したのだと褒めたたえる者もいた。だが、大地神信仰の教会は彼を罪人だと非難し、そしてこうした農村では、作物がうまく実らないという事態に陥っている。
何かしなくては。『あのオヤジ』のしでかしたことだが、今のマリソルはそんな気持ちに駆り立てられた。
「あの……みんなで食べるって、どっすか?」
アダンたちを必死に説得しようとしているチュイに、彼女は提案した。作ってしまった料理は、冬を越すために使えない。だが、ここで憤っている皆で食べてはどうか。それぞれ少しずつになるが、腹の足しになり、わずかだけでも食糧不足の解消に繋がるはずだ。
「こりゃあ、旅人に食べさせるもんだ。みんなで食べても意味ねえ」
チュイの村の言い伝えと大地神を信じる心は、頑ななものだった。これは彼ら二人に用意されたものなのだ。そのためにブリサという豚を屠り、貯蔵していた野菜やパンを取り出したのだ。
マリソルは、何も言えずに項垂れた。自分のために殺された豚も食べてあげたい。だが、『石の樹』を倒したのが父である手前、そのせいで困窮に苦しむ人々の前で、それはできない。
少女は隣の席のディノを見た。助けを求めていたのだ。だが返ってきたのは、静かな灰色の瞳だった。マリソルの言動を試しているようにも、彼女の意向に委ねているようにも見える。
――どうしよう。
その気持ちだけで頭がいっぱいになった時に出てきた言葉。それは、少女自身、何故そちらを選んだのか、すぐにはわからないものだった。
「あたし……食べれない、これ」
チュイ夫婦は、驚いたような悲しそうな視線を彼女に向ける。
「だって…………『石の樹』を倒したの、あたしのパパなんだもん」
ざわり、と家の中にいた人だかりが、どよめいた。振り絞った声の後、マリソルは後悔の念に囚われた。しかし、もう出てしまった言葉だ。
「英雄の娘ってこどかぁ?」
「そんなん置いてけねえ、村から出てけ!」
「殴らなきゃ気ぃ済まねえ!」
出ていけという声が多い中、拳を握った男がいた。が、少女の前には、既に剣を手にしたディノが立っていた。
「出ていくのは仕方ないと思う。素性も知れたしな。
だが、危害を加えるのであれば、俺は容赦しない」
拳を握り構えた男に剣の切っ先を向けると、彼はつんのめりながら後方へと逃げていった。
マリソルは、申し訳なさそうにチュイ夫婦を見た。熱心な大地神信仰者ということは、『石の樹』が倒れたのだって嘆き悲しんだだろう。
「悪ぃが、オメェたちをウチに置いてげねえ」
「うん。ごめん。知らなかったんだけどさ、悪ぃことしたね」
二人は荷物を持って、村人が群がる戸口から外へと出た。もう、真っ暗闇が支配する夜だった。これからどこで夜を明かそう? 村から移動できるか? 植人や傭兵に見つからないか? いろいろな危険が渦巻いていた。
とりあえず村の入り口まで戻ろうと、明かりのほとんどない道を行く。荷物の中にあった小さなランタンに明かりをつけると、舗装されていない道を、入口まで歩いていった。
「…………ごめん、おっさん」
静まり返った暗闇の道で、少女は連れの傭兵に詫びた。今さらながらに、空腹を思い出す。あのとき用意されたブリサは、自分たちのために屠殺され、料理されたのだ。だが、食べられなかった。父が引き起こしたことを考えると、どうしても口にはできなかった。
『あのオヤジ』と、思う。こんな面倒で厄介な旅をすることになったのは、勝手な父親のせいなのだ。それなのに、どうしてあんなことを言ったのだろう。どうして、父の起こしたことだからと、口にすることができなかったのだろう。そこには、認めたくないが、そう、簡単には認めたくないのだが、フェリクス・パドルという英雄は、自分の父親であるという事実があるのだ。それをわかっていたから、あんなことを言ってしまった。
「でも、言っちった。
……言葉にするの、むずかしいけど、さ。パパのこと、ひとつ知れた」
「……うん」
小さなランタンに導かれて、暗い夜道を歩く。その小さな光では、マリソルの表情を正確に捉えることはできなかった。だが、声だけでも、わかる。この小さな灯火のような声だった。
「もっと、知りたいんだと、おもう。……あいつのこと」
村の入り口が見えてきた。夜通し街道を行く旅人や馬車もいるので、目印になるよう明かりが灯っていた。大きな外灯が二つ、村の入り口の門の脇に立っている。
そして街道から、その光の下に人影がやってきた。手に旅人用のランタンを持っている。人数は四人。大きな光の下で、その顔は確認できる頃には、こちらもその明かりの下へと来ていた。