第二章 06
しばらくしたところで立ち寄った休憩所で、二人はデンタの村へ行くという乗合馬車に移った。まっすぐ南東へ向かうレングアに比べると、デンタは南寄りにある。南下していき、ガルガンタまでまっすぐ東へ行くことになるだろう。
次の日の昼に、その馬車はデンタの村に着いた。馬車から下りたったマリソルの感想は、何もない村、というものだった。畑があり、休ませている土地があり、ぽつりぽつりと小屋のような家が並び、中心に教会や集会所が立っている。農村に来たことのない彼女には、あまりに牧歌的な風景だった。
「今日中に、別の街へ行く馬車があればいいんだが……」
村の中心地、馬車が停まる場所には、立て札がしてある。月の何日にはどこそこへ行く馬車が出発する、何日にはどこそこから馬車が来るというものだ。それによると、今日はもう、どこか他の地へ向かう馬車が来ることはないらしい。ガルガンタを目指すなら、明日に南の村・ダールへ向かう馬車に乗るのがよさそうだ。
「今日は、ここに泊まることになるね」
「ふーん、宿は?」
馬車を下りた村の中心部には教会や集会所はあるが、宿屋らしき看板は見当たらない。中心地から外れたところにあるのか、それともこの村には宿自体が存在しないのか。
「あんたらぁ、旅人か?」
全ての乗客が降りた馬車を御者が厩へ連れて行った後、停泊所に残っていた二人を見て、一人の農民らしき男が声をかけてきた。農民にしてはまだ身なりもよく、小さな腹が突き出ている。
「ああ、この村に宿はあるか?」
応対したディノに、その男はキシシと隙っ歯で笑った。
「ねぇよ。ウチん村は宿ねぇ」
「マジで!?」
驚いた少女に、やはり男はキシシと笑う。だが怪しげな色は特になく、人懐こい顔であった。
「オラはチュイっつって、この村ん長なんだけどよ。
ウチん泊まってぐか?」
少女と傭兵は、顔を見合わせる。宿がない以上、この申し出はありがたいが……。
「高い金、ふっかけるんじゃないだろうな?」
「やーっぱ、そう思うか?」
訝しむディノに、農民――チュイは豪快に口を開けて笑った。
「ウチん村じゃ、旅人は大地神さまの化身だって、言い伝えがあってよ。
だから泊めて、お持て成しすなきゃ、罰が当たんだ」
朗らかに、彼はそう言う。
マリソルは、『石の樹(アルボル・サクス)』が倒されてからも、まだ大地神信仰がこうして残っていることに、少々驚いた。もちろん大地神信仰の教会では、彼女の父への非難とともに、まだ大地神ソルン・ヒュームは生きておられる、と説教されるが、それよりも遥かに身近に、こうして信じている者がいるということを感じたのだ。
「どうするの、おっさん?」
「んー……」
こうした旅に不慣れな少女は、自分よりも経験豊富なディノに選択を託した。連れの傭兵は少々考え込んでから、首を縦に振った。
「宿がないなら、仕方ない。
アンタの家に厄介になるよ」
よろしく、と彼はチュイに手を差し伸べる。チュイは自分の服で手をゴシゴシと拭いてから、ディノの手を握った。
「村ん来る旅人のためだ。オラも気張るでな」
彼の笑顔は明るく、裏がないように見える。確かに不慣れな土地であることや、いつあの傭兵たちのような者が来ないか、またチュイが彼らに自分たちを売らないか、警戒はしておかなければならないが、彼が敬虔な大地神信仰者であることは、首から下がる大樹を模したペンダントからも窺い知れた。その信者が風習を守っている、と素直に受け取れば、怖いくらいの歓迎も正当化できる。
チュイは村の中心部にある、自分の家へと二人を招き入れた。村長だと名乗るだけあって、他の家よりは大きく立派だ。
「おかあ、旅人さ来たんで、ご馳走だぁ」
木の扉を開けると、彼は竈(かまど)の近くで縫物をしていた女性に、マリソルとディノを紹介する。同じように大地神信仰のペンダントをしたチュイの妻は、嫌がる顔も見せず二人を受け入れた。
「じゃあ、ブリサぁ、絞めるか」
「ブリサでええね」
何やら話している夫婦に、
「ブリサ?」
と、マリソルは素朴な問いを投げかけた。
「豚だぁ。今日のご馳走だでな」
誇らしげに答えるチュイに、彼女は数秒、真意がわからなかった。ぱちくりと、黒い睫毛が瞬きをし、
「豚を殺して、ごちそうに……?」
『ブリサ』が豚であり、それを殺して今日のご馳走として振る舞おうというチュイの答えに辿り着いた。
マリソルは、しばし呆然とした。旅人は神の化身である風習から、自分たちは持て成される。ご馳走が出される。そのために、自分のところにいる豚を一匹、屠殺しようというのだ。
「え、いいよ、……そんなことしなくて……」
少女の小さく躊躇う声など聞こえないのだろう、農民夫婦は奥の裏口から、外にいる豚のところへ向かおうとする。
「いいって!」
マリソルは慌てて、彼らの後を追った。裏口から出ると、そこに小さな柵があり、その中で数匹の豚が飼われていた。まだどれも小振りだが、丸く太っている姿が愛らしい。それを見た彼女に、罪悪感と恐怖心が襲いかかる。生きている姿を見てしまった以上、それが殺されるのだと思うと怖くてたまらなくなった。
「やめて、いいよ、べつに!」
「なしてだぁ? こうして旅ん方に食べてもらえんだ、幸せなことだぁ」
チュイが中でも大きい『ブリサ』を柵から出し、離れた場所で彼の妻がナイフや斧を準備しだしたのを見て、少女はヒステリックな声を上げた。それが何故なのか、彼には理解できないのだろう。怪訝そうに首を傾げている。
「マリちゃん」
必死にチュイの袖を掴むマリソルの肩に、ディノが手を置いて止めた。どうして?と、彼女は連れの男に振り返る。彼は冷静に、少女に語りかけた。
「今から行われることを、見てなさい」
それが何故なのか、彼女にはわからなかった。だが、彼の説得に、知らずチュイの袖を放していた。
チュイがブリサを豚の柵から離れた場所へ連れて行くと、彼の妻がその豚を草の上に横たえさせ、両手を使って固定する。夫は小さな斧を手に取り、ブリサの前に跪いた。マリソルの位置からは聞こえないが、何かを唱えながら、ブリサの首と心臓を触り、それを自分の口の前へ持っていき、そして己の心臓に手を添えた。最後に大地神信仰の首飾りを掴み、それにキスをする。
そして、チュイはブリサの首に、斧を振り下ろした。豚は首を斬られた瞬間、暴れるように痙攣し、やがて動かなくなった。マリソルの心臓が、ドッドッと激しく鼓動する。あの寂れた路地で味わった恐怖と重なるものが、手足を冷たくした。
次にチュイの妻は、ナイフでブリサを切り分けていく。内臓や血を出し、皮を剥ぎ、食べる肉を的確に切り進める。
くたりとした顔を残し、豚であったものは各部位に分けられていった。マリソルはそれを、ただただ見つめることしかできなかった。初めは震えていた手が、だんだんと硬くなっていく。
「美味しく食べてやるからなあ」
「旅ん方の口に入んだでなあ」
もう死んでいる豚に語りかけるように、チュイ夫婦は各部位に分かれたブリサを調理場へと運んで行った。
その言葉が、マリソルの頭に強烈に焼きついた。
思い出す。先程の、屠殺する前のチュイの行動を。そうして、わかったのだ。あれは、祈りだったのだと。祈りとともにしていた手の動きは、ブリサを食べ、自身を生かす、というものだったのだ。言葉は聞こえなかったが、そうなのだろうと彼女は思う。
ふとマリソルは、今まで自分がいろいろなものを食べてきたことを認識した。あれらは植物にしろ動物にしろ、生きたものだったのだ。こうして屠られ、または刈り取られ、そして口に運ばれ、自身を生かしていたのだということを、今更ながらに理解した。
自分が今まで生きてきた中で、一体どれだけの命を殺してきたのか。また、そうしてひとは生きているのか。命を刈り取らずに生きている人間は、いないのだ。何かの命を殺して生きている、そうして罪を犯していない者は、いないのではないか。そんな思いが、マリソルの中で湧きあがった。
オーフォの街の出来事が、フラッシュバックする。あれは、命を生かす行為だった――確かに、自分の命を生かす行為だった。だが、人を殺すことを、認めることはできない。そうだ、あれは自分の中で正当化できない。
――誰のせい? そう、あの時、自身に問うた。確かに、娼館の男たちのせいでもある。しかし、自分のせいでもある。必死に否定してきた、自身の非。だが、心のどこかでは、認めがたくとも認めなければと、葛藤して、目を背けてきたものだ。
あの出来事は、直接、ブリサを屠った先程の『儀式』と結びつけることはできない。だが人の命というものは、他の何かを殺して生きているものだということが、少女の中に痛烈に残った。
まだ、心臓がドキドキしている。破裂しそうだ。さっきまで生きていたものが死ぬということは、とても怖い。
だが、「見てなさい」と言ったディノの意図が、わかった気がした。それは明確な言葉にして表すことはできなかったが、彼なりに少女に感じてほしかったものがあったのだろう。
今まで目を背けてきたものが、次々に視界に入ってきたように、マリソルは感じた。『自分のせい』なこと、そして、父や母についても――
血生臭い空気が漂う中、彼女は背後に立っていた傭兵に振り返った。ディノは、ふと少女の瞳が先程までと違うように見えた。きっとあの『儀式』から、何かを感じ取ったのだろう。それがまだ彼女の血肉になっていなくとも、影響を受け、少しずつ変化し始めたのだ。
「おっさん」
わずかに沈んだ声だったが、それは静かで落ち着いていた。
「何? マリソル」
階段を一段上った少女に、ディノも同じように静かに訊ねた。
「剣術、教えて。
また、この前みたいなことになった時、もっとうまくやりたいから」
それを聞いて、確信する。少なくとも、この前と同じ状況には、もうならないだろう。傭兵の男は、にやけそうになるのを、必死に我慢した。十代の娘は、次から次へと新しい顔と瞳を見せてくれる。そう仕向けたのは、自分でもあるのだが。
「いいよ。
夕飯の支度ができるまで、やろうか」
旅の荷物を置いてこよう、とディノはチュイの家を指差した。