第二章 02
オーフォの南、ボカの街から北東に位置するコルミーヨの街。広い平原と林の中に存在する街、高い市壁が取り囲む石畳とレンガの街だ。
その中にある、商人たちの屋敷が立ち並ぶ通称『商人(あきんど)街』。アルマス商会の屋敷も、その中に構えられていた。重厚な造りの、大きな館だ。マントを纏った長身の男が一人、裏口から屋敷の中庭へ入って行った。大きな庭の隅にある小屋に赴くと、そこへ入り、外套を脱ぎ棄てる。
長身の男は、マリソルを襲った人物だった。落ち着いて顔立ちを見ると、大人になりきっていないほどの青年だ。金色の髪に、褐色の肌。少女が忘れられなかった、緑の瞳。斬られた腕の処置はしていたが、ディノに引き裂かれた袖口はそのままだった。
彼は、その袖口をじっと見つめる。怪我は治りを見せ、腕にはいつものように包帯が巻かれている。御察しにならないだろう。そう思い、裂かれた袖には触れぬことにした。植人がよく着る衣装の前合わせを引き合わせ、袖口以外の部分を整える。
男は小屋から出ると、大きな館の裏口から中へと入って行った。使用人の通路を使い、奥へと進んでいく。壁にかかるのは、光を放つ石の飾りだ。これも『半端モノ(レタツォ)』の貿易する特殊な鉱石で、すでに人間(ネイミ)の暮らしでもランプの代わりになりつつある。
使用人の通路を抜け、屋敷本来の廊下へ出ると、青年は一つの扉をノックした。重厚で、飾り気のない扉だ。
「誰?」
中から、細いが芯のある声が問うた。
「ヴェルデです」
青年――ヴェルデは、そう落ち着いた声で答える。
「入りなさい」
中からの返事に、彼は「失礼いたします」と頭を下げて、扉を開いた。
扉の中は、広い私室だった。上等な壁紙にカーテン、足の埋まる絨毯、天蓋付きのベッド。その部屋の主は、広い机で書類を読んでいた。
白髪のような銀色の長い髪に、透き通るような青い瞳の女性だ。着ているドレスはシンプルなものだが上質な布地で、レースがない代わりにドレープがきいている。まるでお伽噺から飛び出してきたような美しさだった。
「立ったままで結構」
跪こうとした青年に、その女性は静かにそう告げた。少々居心地悪そうに、立ったままヴェルデは彼女を見つめる。そこにはマリソルたちに見せた憎悪はかけらも存在しなかった。
「ルアナ様。まず、『オーブ』の件ですが」
青年は懐から、深緑の宝玉を取り出す。彼の言う『オーブ』だ。今は光ることも、陣や煙を出すこともなく、大人しくしている。
「こちらが望む範囲に陣を描くことが、まだ難しいようです。それと、煙の残り香なのか、光が消えた後、眩暈や頭痛を引き起こすにおいが残ります」
「まだ駄目ね」
椅子の手すりに肘をついたまま、女性――ルアナは溜息を吐いた。
「それじゃあ、敵がいる方向に向けて使う、『数打ちゃ当たる』大砲と同じだわ。近距離で使えなければ利便性がないもの」
机の上にたくさん並んだ紙の一つに、ペンで走り書きをすると、彼女は遠い目をした。何かを考えている様子だ。
「改良については、こちらで検討するわ」
「かしこまりました。
次に、マリソル・パドルについてですが」
遠くの方向から、ルアナが青年の方を向く。座っている分、遥か頭上から主人の顔を見なければならないのが、いくら「立ったままで結構」と言われても忍びない。
「傭兵を雇っているようで、捕えることができませんでした」
ディノのことだ。本当は雇っていないのだが、ヴェルデにはそう見えたのだろう。
「ふーん。傭兵がいるのは、少し厄介ね。
あと、別の手を打ったので、捕まえる必要がなくなったわ。むしろ死んでくれた方が都合がいいの。殺しなさい」
先程から一向に変わらぬ口調のまま、ルアナはその命令を下した。
「御意に」
青年も変わらぬ声音で受ける。頭を垂れ、胸に手を当てて、その指示を承知した。
「それから」
高い位置にある顔に向けて、女主人が頭を上げる。さらりと、まっすぐな銀の髪が肩から流れた。
「お前の大切なものは、どうなったの?」
ずっと無表情で報告を受けていたルアナが、わずかに口の端を引き上げる。透明で白い氷の顔に、わずかに灯火が宿ったようだった。
ヴェルデは、遥か下方の主にも見えないくらい、顔を下へと引き下げる。申し訳なさで、いっぱいだった。
彼がマリソルを追っているのは、単に犯人として目撃されたからだけではない。その首飾りを取り戻すため、その目的の方が占める割合が多いのだ。その我儘を包み隠さず話すと、ルアナは了承し、彼が英雄の娘を追う許可を出してくれた。
「それは、まだ……」
「そう……」
失敗に言葉を濁す青年に、ルアナは特に関心を示さないような返事をした。再び、氷の顔がそこに現れる。
コンコンコンッとノックがされ、初老の老人が入ってきた。アルマス家の執事だ。
「お嬢様、バエサ商店のご子息、クストディオ様がお見えになっております」
執事の告げる予定に、ルアナは大袈裟に溜息を吐いた。
「連日、知らない殿方とお見合いばかり、疲れてしまうわ」
「仕方ありません。お嬢様はアルマス商会の美貌の女主人と評判ですから」
手早く机の上を整理しながら、彼女は椅子から立ち上がった。執事は、
「この後も予定が込み入ってございますので……」
と、女主人の支度を催促する。
「お前も連日、知らない異性と会ってごらんなさい。仕事の話ならともかく、趣味がどうの料理がどうのと……」
茶化すように、ルアナはヴェルデの方を振り返った。半分は愚痴だ。
「私はそのような身分ではありません故」
「そうね」
頭を下げたまま、青年は自分の足につけられた、青銅の飾りを見ていた。素気無い声が、それに続く。
視線に気付きそちらを向くと、ルアナがヴェルデを見ていた。水のような青の瞳が、下からその緑を見つめる。
「お前は、わたくしのお人形」
言い聞かせるように、ゆっくりとそう囁く。
事実、ヴェルデはルアナの人形として、この屋敷にやってきた。
子どもができなかったアルマス商会の夫妻にようやく出来た娘が、ルアナだ。だが彼女は病弱で、屋敷から出ることが困難だった。その時、巷で癒しの効果があると謳われて売られていたのが、植人の奴隷だ。父親が、娘の話し相手になり、実際の奴隷として使うために買ってきたのが、ヴェルデだった。植人と人間とでは、生殖の方法が違う。だから男の奴隷であっても、間違いが起こることはないと踏んだのだろう。それ以来、ヴェルデの主人は昔と変わらずルアナだ。彼の癒しの効力のおかげかはわからないが、彼女は成長するにつれて健康になっていった。現在はアルマス商会を切り盛りしている。
今でも、ヴェルデはルアナの人形。話し相手であり、奴隷である。二人はそう、共通の認識を持っていた。
「はい」
迷いのない返事とともに、青年は跪いた。立ったままでよいと言われても、そうしたかったのだ。
「袖、破れてしまったのね」
屈んだヴェルデの右腕に、ルアナが触れた。傷に響き、痛みが走ったが、それは顔に出さないようにする。だが、触る指先は、優しく労わりを持っていた。
「新しい服を縫わせましょう。同じのでいいかしら?」
「いえ、そのようなお構いは無用です、ルアナ様」
「じゃあ、婆やに頼んで、縫い合わせてもらうわ。それでいいでしょ?」
身分不相応の扱いに青年が慌てていると、彼女は笑って別に提案を取り出した。湖面のような瞳が、わずかに細まる。銀髪と相まって、それは水面に浮かぶ銀色の月のように美しかった。
ヴェルデがその瞳に吸い込まれるように見入っていると、執事の咳払いが聞こえた。美しい湖面が凍りつく。
「ドレスの御着替えを」
「……すぐに行くわ」
腕に触れていた指は離れ、ルアナはアルマス商会の女主人として、仕度部屋へと向かった。執事の老人も、それに追従する。
ヴェルデ一人でルアナの私室にいてはいけないので、彼も部屋を後にした。使用人通路を引き返し、庭の小屋へと戻ってくる。
大きな窓からは日が降り注ぎ、そこに置いてある椅子へ、彼は腰を下ろした。上着を脱ぎ、包帯を取る。腕が露出し、まだ治り切っていない傷が、そこにあった。靴を脱ぎ、裸足になって、床の土と自身の足裏を馴染ませると、大地と一体になった感覚がする。根が下りたのだ。
思うのは、あの、英雄の娘が持っている首飾りだ。あれは、ヴェルデが作ったものだった。
近年の植人は、人間と同じような姿で一生を終える者が多かった。大地神ソルン・ヒュームから授かった力――自分を、元の動植物の姿へと戻す力、『還行(リトロバース)』を使わず、『半端モノ(レタツォ)』のまま生涯過ごすのだ。ヴェルデの両親も、植人のまま一生を終えた。死んだ親の身は植物のように枯れ、腐るのが終わると、骨は木の枝のようになっていた。ヴェルデはそれを、ナイフで細工し、綺麗な石を嵌めこんで、首に提げてずっと身につけていたのだ。まるで両親が近くで守ってくれているようだった。
それを十年前、フェリクス・パドルに奪われた。ルクシルヴァの滅亡がほぼ確定し、植人は奴隷として売られる寸前だった。ヴェルデもその中にいた。フェリクスは少年だったヴェルデを見つけると、ひょいとその首飾りを取ったのだ。
「綺麗だな」
そう言って。まるで少年の所有権など関係のないように。日に掲げ、太陽の光に輝く琥珀の石を眩しそうに見ていたのを、ヴェルデは憶えている。
――あれを、取り返さなくては。
それが、全ての始まりだ。そう、自分の。
燦々と窓から照らす太陽に身を委ね、土に根を下ろして疲れを癒す。植人として、太陽は必要不可欠だ。腕や足に刻まれた緑の脈は、太陽の光をエネルギーに換え、吸収する。
白い瞼の裏には、先程のルアナの笑みがあった。
あれは、月だ。太陽ではない。だが、崇めずにはいられない。守らずには、いられないのだ。この家に買われて来てから、ずっと傍にいる大切な主だ。そう、主だ。
ヴェルデは長旅の疲れで、いつの間にか眠っていた。