第一章 10
一人の男が、立っていた。
フード付きのマントを着ていて外見から素性がわからないが、背が異様に高い。岩のように大きいのではなく、竹や杉のように細長い。その特徴だけは、その場の全員に充分に伝わった。
被ったフードから、わずかに褐色の肌と緑色の目が見える。その瞳はマリソルを、そして彼女を取り囲む娼館の男たちを見据えていた。
マリソルの肩に、ぞくりと鳥肌が立つ。
「……ようやく」
「誰だ、てめぇ!?」
取り囲む男たちの一人が、剣をその人物へと向ける。しかし、彼はさして気にすることなく、マントから手を出した。包帯が巻かれた手の上には、深い緑の宝玉がのっている。
少女の全身が、無意識にガクガクと震えていた。
男が口の中で何か唱えると、宝玉の中心から強い光が溢れだす。すると、複雑な曲線の陣が地面に描きだされた。中年の長髪男と、娼館の他の男二人が中に入る形になる。
「な、なん――」
何なんだよ、と訊く前に、その陣の縁から光の帯と、その中に白い煙が勢いよく発生した。煙を吸った長髪男たちは気を失ったようにバタリと倒れ、それきりピクリとも動かなくなった。
陣と光の帯、そして白い煙が消え、辺りに独特の匂いが立ちこめる。それを吸ったマリソルは、クラリと頭が揺さぶられたように眩暈がした。取り残された娼館の男もそうなのだろう、頭に手を当て、左右に振っている。少女に斬りつけられた顎髭の男も、倒れながら呻き声を上げた。
「……やはり課題は残る、か」
現れた長身の男は宝玉をしまう。
「何モンだよ、てめえっ!?」
残された一人の男は、狂気の淵に立たされながらそう叫んだ。目の前で仲間が一人斬りつけられ、三人も正体不明の『魔法』で動かなくなれば無理もないだろう。
ナイフを手に、彼は涙に濡れてしまいそうな瞳で、その突如現れた男を睨んでいる。
マリソルは知っていた。その緑を――
長身の人物が、バッと素早く男との間合いを詰めた。と、同時にマントの内側から二つの短刀を抜き放ち、ナイフを弾くと、もう一太刀で男の腹を薙いでいた。弾いた短刀が引き返し、ダメ押しに胸から腹へ斬りつける。これで生き残れる者はいないだろう。娼館の男は、その場に倒れ伏した。
ピッと短刀についた血を払うと、長身の男はマリソルへと向き直る。
少女の震えは治まるどころか、引きつけを起こしたように激しくなるばかりだ。
マリソルは知っていた。その緑を。
あの日、父が殺された日に見た、緑の瞳だ。
この人が――
「見つけた……マリソル・パドル」
パパを殺した人だ!!
彼女の全身が粟立つ。
「その首飾りを返してもらおうか」
短刀を突き付けられながら言われた一言は、マリソルには予想外の言葉だった。
「……え?」
訝しみながらも、片方の手で血塗られた短剣を手にしたまま、片方の手は首飾りへと向かう。
荒い木の模様の真ん中に琥珀が嵌めこまれた、大振りのペンダント。
ルクシルヴァとの戦争から帰ってきた時、父であるフェリクスがマリソルにくれた首飾りだ。
「それは元々、私のものだ」
一歩、長身の男が前進する。
少女は動けなかった。娼館の男たちよりも、よほど恐ろしいと体がわかっていたのだ。
「私が作った首飾りだ。
それを! フェリクス・パドルが奪っていったものだ!」
また一歩、彼は前進した。突き付けられた右手の太刀は、あと少しでマリソルまで届く位置にある。それでも彼女は、後退することも、胸に抱えた短剣を構えることもできなかった。
ただ、ぎゅっと短剣と首飾りを握り締めた。
この首飾りは、マリソルが父からもらった唯一のものだった。誕生日を祝う時も、王国祭の時も、暦またぎの時も、彼女は父から贈り物をもらったことがない。幼少の時にもらった、この首飾り以外は。だから、どんなに素直な愛情を表現できなくても、憎悪の方が勝つ時でさえ、これだけは肌身離さず持っていたのだ。
「これは…………ダメ」
突き付けられた刃の向こう、憎しみしかない緑の瞳に向かって、少女は雫を零すような声で呟いた。
「これは、パパからもらった、ただ一つのものなの……。
だから……ダメ」
怖い。彼女は怖くて仕方なかった。はい、そうですか、とはいかない。わかっていても、渡すことができなかった。殺されるかもしれない。また、そう思った。死の苦痛を考えれば、渡した方がいいだろう。だけど、死を考えられないくらい、渡せなかった。
ビッ
掲げられていた刃が、頬を掠める。ヒリヒリと鋭い痛みが走り、それと同時に涙が溢れそうになった。
「お前の了承など必要ない」
次に長身の男の二本の短刀が動くことは、よくわかっていた。
「奪われたものは、奪い返すまで」
ああ、もう、ダメなんだ……。
マリソルは、死を覚悟した。