第一章 07
「なーんっで、ダメなんだよっ!」
レストランから出てきたマリソルは、その言葉を口汚く吐き捨てると、バカ高いヒールの靴で入口の柱を蹴った。何事かと、通りを歩いていた数人が振り返る。
怒り心頭に、少女はその建物をキッと睨んだ。テラス席もあり、洒落た雰囲気のレストランだ。ふっくらとグロスを塗った唇を、ギリッと噛みしめる。
「『あ、君? ムリムリ』じゃねえよ!」
髪を掻きあげ、その場を離れながら、口真似もまじえて罵る。普段はカッポカッポと間抜けた音を放つヒールも、苛立ちを表現してカツカツと鳴る。
「人のこと、見もしないで!」
ウェイトレスをしたい、と言ったマリソルに、フロアマネージャーの男は、少女を一瞥しただけで首を横に振った。さっきの言葉つきで。面接、以上。終わり。所要時間十秒にも満たなかっただろう。
マリソルが一番憤慨したのは、一瞥で目を逸らされたことだった。こちらのやる気も聞かぬまま、外見だけで判断された。それが許せない。この恰好はヒルベルタのように強く美しい女性になりたいからです、と言えば少しは見方も変わるだろうよ、というのが彼女の見解だ。
悔しい、恥ずかしい、空しい、イライラする、傷ついた、怒ってる――
「だーっ!!」
少女は言葉にならない叫びを上げると、片手を空に上げた。もう片方の手を胸へ。
スウ……、息を吸い込む。
「――ねえ、君」
詩の独り芝居に入ろうとしたマリソルに、背後から声がかかった。勢いを削がれ、つんのめりながら後ろを振り返ると、そこに二人組の男がいる。一人は顎髭を生やした若い男で、もう一人は長い髪を一つに束ねた中年男だった。
怪訝に二人を見る少女に、中年の方が訊ねる。
「もしかして仕事、探してるの?」
先程の行為を見られていたのか、とマリソルは頬を赤くした。自分でやったことだが、まさか周囲から反応が返ってくるものと思っていなかったからだ。
「そうだけどっ、なにか!?」
半ば自棄の、裏返った荒い声が出てしまう。否定されるのか、はたまた肯定されるのか、前者の方が可能性は大きいだろうと彼女は踏んでいた。イチャモンをつけられたら、即効でヘラルド邸まで逃げるつもりだ。
「よかったらさ、ウチで働かない?」
中年の男は、優しげに笑ってそう言った。少女には予想外の発言だ。細い片眉を上げ、困惑気味に彼を見返す。どうかな、と男は首を傾げた。
「ウチもこういう客商売なんだけど、店長も同僚の子たちもいいコばかりだから」
大丈夫、と穏やかな笑みを浮かべ、一緒にいた顎髭の若者も頷く。
……怪しい。マリソルの素直な感想だった。思い出したくもないような失敗の後のうまい話。うまい話すぎて、少し、怖い。
「……いいんスか? あたしみたいので」
わかってるんだろうか、と彼女は自分の外見について触れた。連れていかれてから恰好を否定されて、こちらの意向も無視した外見に直されたら。同僚の子もいい子と言いながら性格が合わなかったりしたら。……どうしよう。
「どうして?」
何が悪いのかと、その中年男は問うた。父とは違う、満面の温かい笑みで。
「目を見れば、君がいい子だって、それくらいわかるよ。だから声かけたんじゃないか」
合わさった視線が、頷いた。ああ、この人は、私の心を見てくれたんだ。少女はそう感じる。ヒルベルタの奇抜な恰好ではなくて、その奥の働きたい熱意や、性格を。
「あの、おはなし、きかせてもらって、いっすか?」
一瞬、顎髭の男と長髪の中年が目配せをする。了承の確認だろう。
「いいよ。店までおいでよ。そこで話をしよう」
親指で通りの方角を示すと、男たちはおいでと微笑む。マリソルは少しだけ、ディノのことを思い出していた。服を買えと言ったことや、危ないことはするなと注意した表情。
――これは危なくないよ。だって、心を見てくれた。
バイトが決まったと、彼に自慢できる。そう思うと、不安な心も少し軽くなった。あのおっさん、この恰好を替えろ替えろとうるさかったからなあ。その恰好でバイト受かったってわかれば、少しは考え方を変えるだろうか。へえ、すごいじゃん、って、褒めて、くれるかな。二人の男の後ろについていきながら、マリソルはそんなことを考える。
繁華街の喧騒を歩きながら、少女は心を躍らせた。初めてのアルバイトだ。自分でとってきた仕事。楽しければ、ヘラルドさんが帰ってくるまでと言わず続けたいかも。なんて、思いながら歩く。
賑わった繁華街を抜け、通りは徐々に寂れたものへと変化していく。看板の塗装が剥げた店、建物自体も古く壊れかけたものもある。
……あれ?
少女の心に疑問符が浮かぶ。それと同時に、不安と緊張も。こんなところにレストランやカフェがあるのだろうか。いや、あるのだろう。ただ、自分が夢描くものと違うものかもしれないけれど。
そう信じるしかない。だって今更、訊けない。二人の男の後ろ姿は、決して不穏な雰囲気を醸し出すものではない。だが、訊けない。質問できない何かを、彼らの背中は出していた。
左に曲がる。さらに寂れた通りに入る。道に落ちたゴミや下水の臭いが酷い。訊かなきゃ。『何を』って、わかっている。危険だと感覚が知らせる。でも一縷の望みも捨てきれない。逃げなきゃいけない? ディノの顔を思い出す。でも、二人は背中を向けているのに、少女は逃げ出すことができないでいる。
通りをそのまま行くと、大きめの広場に出た。中央に水道があり、どうやら面する建物の裏手の場所のようだった。
二人の男はその建物のうちの一つの扉を開き、中にいるであろう人物と話をしている。中から三人の男が出てきて、マリソルを上から下まで見定めた。――もうダメ!!
「あ、あのっ」
絞り出した声は、彼女が思っていたよりずっと掠れていて、裏返っていた。最初に会った長髪の中年男が、何かと首を傾げる。
「これ……ウェイトレスの仕事…………です、よ、ね……」
最後の声は、息と混じって聞こえなかっただろう。男たちは目を合わせあい、つるりとした笑みを浮かべる。
「まあ、客商売で奉仕する仕事って意味じゃ、ウェイトレスと変わらないかな。そーいうコースもあるし」
変わる変わる変わるって!
喉からは出ないが、心の中で激しい叫びが荒れ狂う。
「君みたいな素直なコなら、飲み込みも早いし、すぐに慣れるって」
マリソルは確信した。娼館の男についてきてしまったのだ。このままじゃ娼婦にさせられて、客をとって働かされてしまう。どうしよう、逃げなきゃ、どうしよう、どうしよう……。