第一章 03



 屋敷を飛び出して走っている時、ふいに誰かに腕を掴まれた。引きつった悲鳴が出かかった口を手で塞がれ、ついに犯人が追いついたのだと、そう思ったことをマリソルは憶えている。
 殺される殺される殺されるっ!
 その時に少女を掴まえたのが、ディノ・ロルカという父の友人だった。今、行動を共にしている男である。年を聞けば確かに二十代だが、マリソルから言わせればおっさんだ。冴えているのか冴えていないのか、いまいちはっきりしない風貌も「ビミョー」。それより故郷・ボカで一緒に遊んでいたリノの方が、数倍かっこいい。そうだ、リノに一言も挨拶なく、街を出てきてしまった。あたしがいない間に、彼女なんてできたらどうしよう! マジどうしよう! どこの工場も採ってくれないと不貞腐れていたのを、せっかく今まで慰めてきたのに! 街道を歩きながら、マリソルは遠い故郷に思いを馳せた。
 林を切り拓いて敷かれた街道を歩き、首都コラツォンとの分かれ道をさらに北へ進むと、木々の間からオーフォの市壁が姿を現した。石でできた大きな市門の前には武器を持った兵が立ち、商人や旅人を監視している。
「今は厳戒態勢じゃないから、いちいちチェックもしてないだろう」
 市門が近づくにつれ顔が強張ってきたマリソルに、ディノは正面を向いたまま告げた。浮浪者や乞食が都市にあふれる問題も多々発生するが、普段ひとりひとりを問い質すことはない。馬車や大荷物の商人にお決まりの質問をするのがせいぜいだ。フェリクス殺害の犯人探しも上層階級の罵り合いの色合いが濃く、警備が厳重になるほどではないようだった。
 犯行の目撃者というだけで、まるで逃亡人のような気分だ。あたしがなに悪いことしたってーのよ、とマリソルは神経が過敏な自分を叱咤する。心もち胸を張る少女を、隣でディノは小さく笑った。
 大きな市門を何事もなく抜けると、そこにはオーフォの街が広がっていた。
「……でかー」
 門から左右に伸びる市壁は、平らな土地も手伝って、どこまで続いているのかわからない。港に隣接するボカは傾斜が激しく、高い場所に行けば容易に街全体が見渡せるが、オーフォでは家の隙間から近くの市壁が確認できるのがせいぜいだ。建物はどれも背が低く、見上げれば空が大きく広がっているが、自分の位置が把握しづらく距離感がわからない。
「ボカと同じくらいだよ」
 立ち止まり、左右に上下に首を動かしてキョロキョロとするマリソルにそう言うと、ディノは看板を頼りに歩き始めた。少女もそれについていく。市門の近くは中心街から遠く、人もそう多くない。建物同士の間隔が広く、ゆったりとした印象だが、あまり周りに気を取られていると、すぐに彼を見失いそうだった。
 市門から街の中心に向けて、徐々に店の看板と活気が増していく。広い通りには露店が並び、色とりどりの野菜や花が売られていた。歩きながら空気を嗅ぐと、青い新鮮なにおいがする。まるで葉に鼻を近づけた時のような香りに、マリソルは違和感を覚えた。露店の野菜や花が、これほどにおいを放つのか? 街を見渡しても、緑が多いわけではない。
「マリちゃんさあ、その格好、やっぱどうにかならんかね」
 隣を歩くディノは、すれ違いざまに向けられる視線が気になるようだ。人の多い所を歩いた方が埋もれるかと思ったのが、そもそも間違いである。逆効果でしかない。
 その懇願にも似た呟きを無視して、少女が訊ねる。
「なんかさー、青臭くね?」
 八百屋や花屋の露店を通り過ぎても鼻につく香りに、彼女は眉をひそめた。不快なほどにおうわけではないが、石造りの街の中では異様だ。
「ああ、植人(フランタ)のにおいだろう」
 ほら、と隣の男は行き交う人々の中へ指先を向ける。その指した方向を見ると、太った商人につき従う褐色の少年がいた。主人の整った身なりに比べ、簡素な前合わせの服を着ている。青銅の足飾りは、彼が奴隷である証明だった。
 マリソルは一目でそれが植人なのだとわかった。その少年の髪は、蔓や葉でできている。褐色の腕と足には緑の刺青に似たものが走っていた。何より緑の瞳に宿る光が、人間とは違うのだ。どこか茫洋としたその光は、言葉よりも感覚で、彼が違う種であることを知らせていた。
「あっちのも、植人」
 また別の人物を、ディノが指差す。今度はフードを被っていて頭髪を確認できないが、服の袖から伸びる腕は植物の緑、先程の少年と同じような紋様が入っている。瞳の色は朱色だが、植人であるとわかる独特の雰囲気。膝下で切られたズボンから覗く足首には、同じく青銅の足飾りがあった。
「この街は、これから会いに行くヘラルドの家――カルバハル家の領地でね。そのカルバハル家っていうのが植人の国・ルクシルヴァの統治を任されてるんだけど、その関係でこの街にも植人の奴隷が多いんだろうね」
 通りを歩く人々をチラチラと目で追うだけで、植人は何人も確認できる。ディノの瞳を追いながら、マリソルもあちらこちらと顔を振った。時々ぶつかる視線に、居心地の悪さを感じながら。
 植人の奴隷を買うことは、階級社会でのステータスでもある。彼らは、人間のようにベッドで寝るのではなく、足の裏から土に根を下ろして眠るからだ。自分の家に植人を置けるだけの庭がある、ということが、ある一定以上の市民や商人にとって一つの自慢であった。もっとも、汚れた土手で眠らされるなど劣悪な待遇を受ける植人も多くいるが。
 物珍しそうに植人を探す少女を見て、ディノは下がった眉尻をさらに下げた。
「ボカの街にもいるでしょ、植人なら」
 何と言っても十年前ルクシルヴァを滅ぼした時の英雄がいる街だ。植人の奴隷がどれだけいても不思議はない。
「んー、いないことなかったけど、魚人(ピッシ)や鰓肺人(アンフィバ)の方がいた」
 マリソルはボカのことを思い出す。港が目と鼻の先にあるため植人よりも、海を支配する魚人や、魚人と共生する鰓肺人の方をよく見かけた。
 魚人は鱗と鰭を持つ『半端モノ(レタツォ)』だ。海における島や陸における湖など、中継地点として重要な場所を押さえ、そこで貿易を取り仕切っている。商人気質が強く、利益になるのならどの種族とも手を組み、それゆえ中立的な立場にいた。ルクシルヴァ侵攻の際も、彼らには渡航の許可とその期間の護衛を交渉している。内海に浮かぶ彼らの島とメーティス国内の魚人の安全を約束した不干渉条約を結び、メーティス軍は内海の向こうのルクシルヴァを滅ぼすことができた。
 そのような交渉の際に、鰓肺人が出てくる。魚人たちはほとんどを水中で過ごすため、陸の種族との交渉には、彼らより乾燥に強い鰓肺人が当たった。そうやって共生しているのだ。魚人も鰓肺人も、植人と同じく人間とは違う種族の目であったことを、マリソルは思い出した。茫洋とした光の植人とは違い、まんまるで何を考えているのか全くわからない、じっと見つめていると少々不気味な目だった。
「フェリクスは植人の奴隷を買ってなかった?」
 身近に植人の奴隷がいるのなら、この反応はないだろうと思いつつも、ふと疑問に思い、父の友人は訊く。
「ウチ、奴隷いねかったなあ」
「奴隷、一人もいなかったの!?」
「うん。たまにお手伝いのマリナさんが来るくらい」
 予想以上の答えに、ディノは堪らず叫んだ。フェリクスの屋敷は、確かに軍の英雄にしては質素で小振りなものだが、それでも貴族の家である。召使いが世話をするのが当たり前の世界だ。おまけに一年前に妻でありマリソルの母であるエストレリャは没し、二人暮らしなのだ。お手伝いさんも『たまに』って……。どうやって生活してたの、君たち!? 目をひんむいた男に、少女は不快そうに視線を向けた。
「よく変わってるって言われたけど、ウチはそだったの! パパもママも家に他人(ひと)入るの、ちょーイヤがったから……」
 フイ、とマリソルはディノと反対方向へ顔を背けた。家のことは、あまりいい思い出がない。
 父が議会やパーティーから帰ってくる時は、いつも憔悴した顔だった。幼い娘にはわからない苦労があったのだろう。家での父は小鹿のように大人しく、何故その男が英雄とされるのか、マリソルには理解できなかった。母はそんな父を笑顔で出迎え、よく支えた。
 でも娘は知っている。父がいない時、母はいつも疲れ切った顔だったことを。英雄の妻という立場は、その本人と同じく華々しさの裏にある、大きな嫉妬や羨望、憎悪、底なし沼の黒い感情に晒された。
 父と母は、他人の入りこまない家の中で、互いに疲れと痛みを慰め合った。そうして支え合わないと、その地位がもたらす孤独と負の感情の嵐に耐えきれなかったのだろう。二人は家族でいると、笑顔になる。マリソルは、その二人の笑顔を喜んだふりをして笑うことしかできなかった。口を噤んで、にこにことしていることが、娘の立ち位置だったから。
「相変わらずわけわかんない奴だなあ、あいつ」
 記憶の蔦に絡めとられたマリソルの思考に、ディノの能天気な声が響いた。呆れを含みつつも、懐かしさと寂しさが滲んでいる。
「……そうね」
 少女が感情のこもっていない声音でつっけんどんに返すと、連れの男は遥か前方を指差した。
「ほら」
 平坦な土地の中でも、わずかに小高くなっている場所に、それはあった。