第三章

06

 ノルベルトが腰に提げていた剣を引き抜いた。鋭利な銀色が光を放つ。
「まだ『司祭』と親父さんが来てないよ」
「司祭が来れば、君は永遠に万能薬を生み出すだけの装置になる。その前に、少しくらい傷つけたって構いやしないだろう」
 彼の声に、小さな苛立ちが混じっていた。先程までは表情がアンバランスではあっても余裕を感じられたのに、それがなくなっている。
 普段と違うノルベルトに、ヴィタは場違いな新鮮味を感じていた。いつも笑っていて、優しくて、取り乱すことのなかったこの男の苛立つ様子を、彼は今まで見たことがなかった。
 口元はつり上がっているのに、目は真剣だ。
 永遠に万能薬を生み出すだけのねえ、と青年は内心で一人ごちた。一人のノクス族から次々と万能薬を生み出すなんて、まるで絵空事だ。悪魔と契約したか、魔術にでも手を出したか。
「……人間は迷信深い黒魔術を信用しないと思ってた」
「金儲け主義の信仰だけでは、心は満たされないということさ。まあ、金に目のくらんだ奴ほど扱いやすいがね」
 ノルベルトの剣先が、鎖で繋がれた青年に向けられた。
「そういえば今日、ヴィタの十八の誕生日だ。おめでとう」
 思い出したように、赤毛の男は場違いな言葉を吐いた。
「あれ? ……そうだっけ?」
「そうだよ。何年の付き合いだと思ってるんだい?」
 その間も、剣の切っ先は青年に近づいていた。
 ヴィタは自分の兄のような男を、紫紺の瞳で見上げている。狼狽(うろた)える様子はない。覚悟しているのか、内心は冷や冷やしているのか、それともまだ自分を信じているのか、表情に出なくて嫌になる、とノルベルトは冷酷に彼を見下ろした。
「エルゼが来てからの方がよかったかな。君が傷ついたら、あの子はどんな顔で泣くだろうね」
 それまで、ただじっとノルベルトを見上げていたヴィタが、顔をしかめた。
「ノルブ、」
「僕は可愛いと思うよ、それも」
「いや、可愛かったけど。でも、俺は笑ってる方がずっと好きだ」
 噛みつくような視線に、ノルベルトは楽しげに目を細める。余裕のある表情に苛立っていた男は、小さく笑った。つまらない。こんな言葉で掻き乱すことが。
「ノルブはエルゼが本当に楽しそうに笑った顔を知らないから、そんなことが言えるんだ」
 それまで笑っていた彼は、ぼんやりとヴィタを見つめた。この青年は、あの、王宮で唇を尖らせていた少女の、何を知っているのか。十年間で彼女が、どれほど変わったというのか。変わっていないのは――
――ヴィタ」
 呼ぶ声は、わずかに震えていた。
 ノルベルトは一度ゆっくりと瞬きをし、ヴィタの頬に切っ先を近づけた。
 バンッ!という大きな音がして、扉が開く。予想だにしていなかった轟音に、ノルベルトもヴィタも目を見開いて、そちらを見た。突然、物凄い勢いで入ってきた金髪の少女は、二人がよく知るあの伯爵令嬢だ。彼女もまた、目の前の光景に驚愕していた。
――エ、」
 赤毛の男が鎖で縛った青年の眼前に、剣を向けている。感情が言語や形として認識されるより早く、エルゼの体は動きを続けていた。階段を下り部屋に突入した速度を緩めることなく距離を詰め、跳躍し、彼女はそのまま、ノルベルトに蹴りを放っていた。
 よく見知る少女に剣を向けるか否かを躊躇していた彼は、瞬時に防御や受け身を取ることができず、エルゼの蹴りに吹き飛ばされた。すぐ傍の壁に頭を打つ。
「痛っ」
 着地に失敗し、少女は尻餅をついた。しかしすぐに起き上がると、スカートの乱れも直さないまま、柱に縛り付けられたヴィタに駆け寄る。
 助けられた青年は、彼女の驚くべき行動に呆然としていた。確かに蹴りについて話したのは自分だが、実際に目の当たりにすると仰天する。
「ヴィタ! 大丈夫!?」
「…………女の子が飛び蹴りするとこ、初めて見た」
 エルゼは自分の短剣で鎖が切れないかと、四苦八苦している。鎖の繋ぎ目に短剣を打ちつける手はガクガクと震えて、うまく狙いが定まらない。それだけ彼女も恐怖と不安を抱えていたのだと、ヴィタは胸がきゅうと苦しくなった。
 エルゼの瞳に涙が溜まっていく。今、泣いてはいけないとわかっていても、生きていたことに安心したら感情の箍が外れた。体が言うことを聞かない。視界は涙でぼやけ、手は震えでうまく扱えない。
「よかっ、た――
 安堵の言葉が零れるのと、腹が燃えたのは同時だった。火が押しつけられたような痛みと熱を感じてエルゼが自分の腹部を見下ろすと、そこから刃が生えていた。
 少女の背後に、赤毛の男が立っていた。苦しげに歪んだ顔で、彼女に剣を突き刺している。
「……本当に、……眩しくて……苛々する」
 掠れた声で呟くと、刃を握るその手を後ろへ引いた。エルゼから剣が抜かれると、彼女は糸を失った人形のように床に倒れた。深紅の血が広がっていく。
「エルゼっ!!」
 遠くでヴィタの声がした。
 見えない誰かに引っ張られるように、意識が遠のいていく。刺された箇所は痛いし熱いのに、体が冷たくなっていく。強制的に夢の世界へ連れて行かれる感覚。夢の、世界――甘美な眠り――
 遠くで金属が壊れる音が聞こえた。
 剣の転がる音、体が倒れる音、生々しい衝撃音、複数の悲鳴、叫び声――
 遠い。
 死ぬのかな。
 視界が闇に覆われていく。
 こんな時になって、エルゼはあの『黒色』を理解した。あれは外の世界の闇じゃなかった。瞼を閉じた時の黒と同じだ。何色も浮かぶのに、気付けばただの黒だ。何色でもない。
 ああ、死ぬんだな。
 死にたくないな。
 ヴィタは無事だろうか。
 何故、彼の母親がヴィタを産んだのか、少しだけわかった気がする。人はいつか死ぬのだ。だから命を繋ぐ、子どもを産み育てる。彼女は自分の命を、彼にあげたんだ。そう考えると、人間もノクス族も、そこまでかけ離れた存在ではなかった――
――――エルゼっ!」
 近いのに、遠い。その黒はすぐ傍にあるのに、こんなにも声が遠い。
 そんな悲しい声で、名前を呼ばないでほしい。そう言いたいのに、ちっとも伝えられない。そう、いつだって、ちっとも伝えられない。
 全てが黒に塗り潰された。意識の最後のひとかけらが闇に零れ落ちる。
 闇の深淵に沈みきる寸前、温かい水が感覚をなくした喉へ流れ込んだ。鉄のように苦く、ミルクのように甘かった。