終章

 王都ドゥンケルシュタッドから見える空は、いつも薄暗い。グイードは国王の執務室から鼠色の空を眺め、そんなことを思った。
 目の前の執務机に座るレオンハルトは、ぼんやりと机の上を見つめながら、臣下の報告を聞いている。
「ステンデル侯爵親子は絶滅亜種保護法違反と謀反の罪で投獄」
「すごい怪我だったそうだな。ノクス族は怒ると凶暴だと憶えておこう」
「征服派がそれを知って、亜種討伐案の再提出をしたと知っているか? 却下してみろ、それこそ反乱になる」
「それは保存会のお前とは関係のない話だ。報告」
 促されて、眼鏡の男は書面に視線を戻した。
「また、ドリーセン司祭の共謀も発覚。兵がアーベンの城に到着した時、彼はいなかった。五日後、聖都で教会内征服派により、魔術に通じていた罪で彼は捕縛されている。ステンデルの事情聴取をした兵が、聖都へ着く二日前に」
「二日前にねえ。王都で対処するより前に、誰かが征服派に密告した、とか?」
 獅子の形をした文鎮を両手の間で投げて、レオンハルトはグイードの冷たい視線を受けた。仕方なく文鎮を書類の束の上に戻す。
「今回のことは、国王が共存派にも征服派にも自身の意向を示さなかった結果だ。署名」
「ここ数日、耳が痛い」
 国王の推察に触れることなく報告は終わり、書類が提出された。レオンハルトはサラサラとサインをし、押印をする。署名が終わった書類を、彼は前方に掲げた。目線すら合わせず差し出され、グイードはその束を受け取った。
「信仰者まで眉唾物の黒魔術に手を出すとはな」
「それだけ今の世の中、宗教だけを心の拠り所にできないということだ」
「拠り所ねえ」
 特に関心を示さない国王に、この事柄もすぐに彼の記憶の奥へ消えるだろう、とグイードは考えた。国の王――実質的には世界の王であるにも関わらず、彼は不死身とか不老には興味がないのだ。
 臣下は書類の署名を確認すると、それを手で脇に抱えた。
「ああ、あとフォイルナーからの書類。これも頼む」
 グーイドが帰るとわかってレオンハルトが取り出した書類に、眼鏡の男は訝しんだ。フォイルナー伯のマルクからということは、ハイマートで書いたノルベルトに関する報告書だろう。怪我が完治して王都へ戻ってきたグイードは、マルク自ら迅馬で届けに来ていたことを聞いた。
 しかし最初の書き出しに、それがヴィタとエルゼの婚礼に関する契約書であることがわかった。王家の紋が入った特殊な紙が使われている。
 娘があんな事態になっても、契約破棄にはしなかったようだ。いや、あんな事態になったからこそか。ヴィタが生きているのだから、事件があろうが保存会の人間が変わろうが、契約は存続する。今回の事件で、余計に褒賞を上乗せさせられるかもしれない。
「律儀というべきか、がめついというべきか」
「俺はどっちでもいいけどな」
 相変わらず、この国王は何ものにも興味を示さない。今はまだ国に深刻な被害はないが、臣下たちの煮え切らない思いは募っているだろう。一体、何がしたいのか。ひょんなことで国王と知り合い、砕けた口調で話し合うグイードでさえ、彼が何を好んで、何を望んで、何を成そうとしているのか、その本心を垣間見ることができないでいた。話し方も一人称も相手に合わせるこの男にとって、今のような言葉遣いだから本当の顔であるという保証はないのだ。
 レオンハルトから契約書へ視線を戻したグイードは、すぐにその顔を歪めることになった。
「なっ……! おい、レオン! なんだ、これは!? ちゃんと見たのか!?」
「なんだ、と言われても知らん」
 声を荒げて抗議する彼は、契約書を国王に向けて示し、項目を指差していく。
「どうしてノクス族との繁殖期限が五十年後になってる!? 移動許可範囲はハイマートと保護区域だけだったはずだ! 何故、それが『大地と空の続く限り』とか馬鹿げた言葉になってるんだ!!」
「洒落の通じる奴じゃないか」
「お前、本気で言ってんのか……っ!?」
 相手が国王であることも忘れ、グイードは怒りに満ちた声を上げた。その馬鹿げた契約内容もさることながら、特筆しなければならないのは、その契約書にレオンハルトのサインと押印がされてしまったことだった。この条件を、国のトップであり、絶滅亜種保存委員会の全権を握る国王が許可したという事実。それがグイードの怒りと苛立ちを助長させた。
「保護区域から絶滅危惧種を放逐するということなんだぞ!?」
「ああ、そう」
 そうだ、この王にとってそれは些末な事柄なのだ、と彼は渋面のまま眼鏡を押し上げた。大体、自分が権限を持つ団体の問題でさえ、どうして無興味でいられるのか。
「ギド」
 不機嫌面をレオンハルトに向けると、彼は片肘をついたまま窓の外に視線を向けた。王都の空はいつもの鈍色。
「そもそも人間が決めることじゃない」
 薄く笑った表情と硝子のような瞳は、空虚だ。曇天の王都を眺める国王を見て、グイードは言いようのない危機感を覚えた。
「ところで、ギド。降格と減俸、好きな方を選べ」
「は?」
「国王を『お前』だ『レオン』だと呼びやがって。お前に愛称で呼ばれる謂われはない、気色悪い。大学に推薦出してやった恩も忘れたようだな、変な眼鏡かけやがって。不敬罪でとっ捕まりたいなら、今から近衛兵を呼ぶが、どうだ?」
 違和感なく遣われる汚い言葉は、沸騰する彼の頭をさらに混乱させただけだった。しまったという気持ちと、この国王すぐに王座から引きずりおろしてやる!という気持ちが混在する。どちらも口には出せない。
「減俸にするか。しばらく昇格もなさそうだし」
 何も言えないでいるグイードを差し置いて、レオンハルトは彼の減俸辞令を書き始めた。
「ああ、ところで。フォイルナーの娘の絵は見たか?」
 辞令をサラサラと書きながら、国王が話を振る。未だ腹の虫がおさまらないグイードは、突然の話題に仏頂面で答えた。
「さあ。俺は絵画に興味がない」
「そうか。なかなか良い絵だ、今度見てみるといい」
 滅多に聞かないレオンハルトの賛辞に、臣下は眼鏡の奥の目を見開いた。良いと褒めているということは、それに対して関心があるということか。そこで新たに疑問がわいた。何故、この男がエルゼの絵を知っているのか。
 グイードが答えを見つけるより早く、彼の眼前に減俸辞令の書類が掲げられた。

 不思議な気分だった。人間はすぐに忘れる生き物らしい。あの日の灼熱の痛みも恐怖も死の感覚も、確かに憶えているのに、それは現実的ではない。都合のいい記憶の仕方をして、生々しさは砂の城のように周囲から崩れていく。あの日、渦巻いていた感情の嵐も同じだ。憶えているそれは、すでに違うものだろう。頭の中で繰り返すうちに、元の形を失ってしまった。
 エルゼは綺麗に洗ったパレットを、大切に鞄にしまった。あの日、理解した黒色。その黒に助けられた。
 ヴィタがステンデルの城にあった万能薬を、瀕死の彼女に飲ませたことにより、エルゼは命を繋いだ。ノクス族の命を繋ぐために選ばれた自分が、逆に彼らに救われたのだ。いい理由が見つけられた、と今の彼女は思う。
 新しく買ってもらった絵の具も、使い込んだ絵筆も、鞄の中にしまっていく。スケッチブックも一緒に詰めた。イーゼルは折り畳んで小さくなるものを、使用人たちが作ってくれた。キャンバスは町で買えばいい。
「エルゼー、入るよー」
 ノックが聞こえると、返事を待たずにターニャが部屋に入ってきた。まだ荷造りが終わっていない親友に苦笑する。
「もう出発するんでしょ? 大丈夫? もうすぐクリストフも来るよ?」
 もう一人の幼なじみも聖都から帰還して、今日は屋敷に来るはずだ。教会の別の修道士からドリーセンのことを聞き、彼女たちは仰天した。共存派の中でもかなりの権力者だったからだ。クリストフが聖都にいた時の事件だし、彼もこのことを知っているだろうか。
 テキパキとエルゼの荷造りを手伝うターニャは、
「あーあ、いいなあ。あたしもあれくらい美形の恋人と、ラブラブ二人旅したいなあ」
 と、嘆息をもらした。自分よりもよほど可愛らしい彼女の幸せを、エルゼは願わずにはいられなかった。
 片手でも持てるくらいの最低限の荷物を作ると、二人は部屋から出る。玄関にクリストフが立っていた。吹き抜けの二階から手を振り、階段を下りて駆け寄る。
「いらっしゃい、クリストフ」
「聞いたよ、司祭サマのこと。大丈夫?」
 幼なじみの青年は、相変わらず気の抜けた笑顔で頷いた。
「うん。司祭が魔術に手を染めちゃ、ダメだよねー」
 あっけらかんとした口調に、心配していたエルゼたちも調子を崩される。
「偉い人があんなことになって、教会もどうなるんだろうね?」
「さあ。僕はハイマートで平和に暮らせれば、どんな教会でもいいな」
 平穏な生活を噛みしめるように、若き聖職者は呟いた。その穏やかな瞳は、故郷への愛情で満ちている。やっぱり平和が一番よねー、とターニャが同調した。エルゼも、ターニャも、そしてクリストフも、このハイマートが平和であることを一番に望んでいる。
 クリストフが何か言おうと口を開けたが、それはすぐに閉じられた。
「ん?」
「ううんー、なんでもない」
 それに気付いたターニャが首を傾げて促そうとしたが、彼は発しようとした言葉を飲み込んだ。ニコニコ顔に戻る。
「そう。なら、いいや」
 この青年が言わないと決めたら、言わないのだろう。子どもの頃は口を引っ張ってでも聞き出そうとしたが、年頃の男女になると互いに深く立ち入らないようになった。
 三人で玄関から外へ出ると、マルクが娘の持つ荷物の小ささに目を見張った。
「そんな荷物でいくのかね。絵描き道具は?」
「必要なものは全部持ってるわ」
 ハラハラとして落ち着きをなくしているマルクに、エルゼは改まった。
「あの、父様。
 ありがとう、ございます」
 彼女は父親の目を見つめて、そして頭を下げた。
 迅馬で王都へ急いだマルクは、国王にグイードの報告書を提出すると、自らの言葉で事態の深刻さを語った。内務大臣は直ちに兵をアーベンへ向かわせたが、父親にとっては気が気でなかった。そんなやきもきとするマルクに、宮廷画家が訪ねてきた。ハイマートの北の街道に放置されていた王家の紋が入った馬車を、報酬目当てでわざわざ運んできた貴族がいたらしい。その荷物の整理現場を見た画家が、エルゼの絵を発見したというわけだ。
「磨かなければ光らないが、磨けば光りますよ。この人の描く絵を、もって見てみたい」
 その言葉で、マルクは無茶な契約書を作成した。初めは、五十年の猶予とフォイルナー伯爵領の自由だけしか提示していなかったが、
「なら、もっと馬鹿な要求を書けばいい」
 と、話を聞いた国王に唆されて、思い切りふざけた契約書になった。マルクからそれを受け取ると、レオンハルトは内容も見ずにさっさとサインと押印をした。主君が何をしたいのか、伯爵はさっぱりわからなかったが、あまり深く考えないことにした。この王が何をしたいのか、もうずっと以前からわからなかった。
「父様も母様も、私が絵を描くことや、そのための旅を、許してくれて」
 感慨深く回想していた父は、いつになく穏やかに話すエルゼに、現実に引き戻された。思春期に入り、反抗的に育った娘がこうしている姿を見ると、涙腺がゆるみそうだ。
 家に戻った少女は、知らないうちに進んでいた話に驚くばかりだった。ヴィタとの婚礼については破棄するつもりはなかったが、五十年の猶予と行動の無制限は寝耳に水だった。父は迅馬で王都へ急ぎ、母はその間、グイードと従者の世話をしていた。帰ってきて、温かい料理をみんなで食べた。母が作ったわけではなかったが、とても美味しかった。
 両親の慈善活動は続いている。エルゼは、それにもう苛立ちを覚えることはない。誰かのために何かをすることと、自分の気持ちを切り離して考えることは難しい。
「たくさんいい絵を描きなさい。アトリエを持ちたいのなら」
 しっかりと頷く娘に、マルクは離れがたさと寂しさを感じる。だってこの子はまだ十七だ。
「本当に、あの絵を売っていいのかい?」
「ええ。王都の方が買い取りたいと仰ってるから。そのおかげで旅に出られるんですもの」
 あれからハイマートを訪れた画家に、エルゼの作品を見せた。出来の良かった数点を引き取りたいと言い、その金で彼女はハイマートを出立することができる。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
 荷物を一度置いて、父親に抱きついた。
 アンネリースがハンナとともにやってきた。
「お嬢様、ハンナめのクッキーとお弁当です。道中で召し上がってください」
「ありがとう、ハンナ」
「本当に使用人を一人も連れて行かないの?」
「困ったことになったら、二人で協力するから大丈夫よ、母様」
 同じように抱きしめあう。あまり寄り添っていると、寂しくて出発できなくなりそうだ。
 元気のないユストゥスが、ハンナに背中を押されて姉の前へ出た。
「……姉さま、怖い思いをしたら、すぐに帰ってきてね。ボク、あの人をぶん殴るから」
「大丈夫よ。その前に私が蹴り飛ばすから。でも、ちゃんと帰ってくるわ」
 子どものように抱きついてくる弟を、エルゼは抱擁し返した。
 ……蹴り飛ばす?
 そんな疑問が一同にわきおこったが、気持ちのいい門出のために各自、心にそっとしまい込んだ。
「エルゼ」
 少女を待つノクス族の親子に、彼女は歩み寄る。
 ファクスは保存会の報告を受けて、ハイマートへ文字通り飛んできた。息子と少女の心配で、渋みのある顔が情けなく歪んでいた。滞在中、マルクとは意気投合したらしい。提出した契約書の話を聞き、高らかに笑った後、がっちりと握手を交わしていた。
「エルゼさん、これ。セルタのレシピ。二人で作ってみなさい」
「ありがとうございます……」
 手渡された紙切れにはレシピが書いてあるようだが、エルゼには読めなかった。どうやらノクス族の文字らしい。確認してしばし固まり、
「……ヴィタに読んでもらいます」
 紙切れを大事に鞄のポケットに入れた。
「いってきます、親父」
「いってらっしゃい、二人とも。気負わずにね。帰ってきたくなったら、帰ってきなさい。もちろん、あの城にも」
「はい」
 ノクス族の親子の別れは抱擁も握手もなく、あっさりとしたものだった。エルゼはファクスと握手をした。
 エルゼとヴィタが歩き出す。背後で見送る家族たちに、見えなくなるまで手を振った。
「ありがとう」
 二人で村の出口まで歩きながら、唐突にエルゼが礼を言った。それまで微笑んでいたのに、至極真面目な表情になっていた。
「私、ノクス族に助けられたから、死ぬ時はノクス族のために死ぬ。
 だから、それまでの人生を、私にちょうだい」
 別にあの時、万能薬に助けられなくても、この話を破棄するつもりはなかった。外聞や代わりの娘のことではなく、助けに行こうと思った時から、そう決めていた。ただ、この理由の方が、それまでの反抗を謝れると思ったのだ。
 ヴィタは目をぱちくりとさせた。
「エルゼの人生はエルゼのものでしょ」
 ……そうね、でも絶滅危惧種で保護を受けてた人に言われるとは思ってもいなかった。少女はガクッと肩を落とす。
「むしろ俺が、エルゼの人生をください、って言う方がしっくりくる」
 そうだね、と恰好がつかなかった彼女は、半ばどうでもよくなった。どうにもテンポがずれるのは、種族間の問題だけではないようだ。
 隣の気配がなくなったことに振り返ると、ヴィタが立ち止まっていた。真っ直ぐにエルゼを見ている。
「エルゼの命の最後を、俺にください」
 初めて会った時のことを、エルゼは思い出していた。闇夜で見た作り物のような青年の顔。今は、そうは思わない。紫紺の双眸は、しっかりとした力を持って少女を見つめていた。
 ストレートに言われると、頷きたいのになかなか頷けない。照れて赤くなった顔を隠すため、彼女はわずかに俯いた。
「エルゼ?」
「…………………何十年後になるか、わからないけど、それでいいなら」
「子ども産めるくらいの年齢にしてね」
「わかってるわよ!」
 つい語気が強くなるエルゼに、ヴィタは満面の笑みを向けた。そのまま彼女の隣へ戻ってくる。見たこともないほど陽気になっている彼を、正直気味が悪いと彼女は思った。
「次の村くらいまで、飛ぼうか」
「疲れるんじゃない? 荷物もあるし重いよ?」
「いいから!」
 そのまま膝の裏に手を入れて、抱えあげる。いきなり抱きあげられて、少女は荷物を取りこぼしそうになった。
 抗議の声を上げる前に、ヴィタがふわりと浮かびあがる。スピードをつけて空へ舞い上がると、未体験の高さにエルゼは悲鳴を上げた。
「たかっ……」
 ぐるりと一周、見渡す限りの空が続いている。山が低く見える。森が下にある。湖、池、道、小さい!
 この世界をたくさん切り取ろう。美しいものも儚いものも、限りある中でたくさんたくさん見て、描いて、感じたい。きっと、いろいろな可能性を、そこで見つけられる。
 地平線が見えた。空と大地を分けるその線は、いつか見たものと同じだった。
 あの果てまで、きっと行くことができる、とエルゼは確信した。