第三章

05

 エルゼは未だ城の一階を彷徨っていた。
 物音を立てないよう物陰に隠れて歩くのは、とても困難だ。使用人はほとんど姿を見せないため今まで見つからずに済んでいるが、本当にうまく隠れているのか彼女自身も不安だった。
 二階への階段と渡り廊下は見つけたが、地下への階段が見つからない。地下への階段に固執しているのは、エルゼの勘だ。もしかしたら上の階かもしれないし、別館かもしれない。ノクス族は飛べるので、上の階から空へ逃げてしまっては都合が悪いだろう、という理由だけで少女は下へと続く階段を探している。『牢獄は城の地下にある』から始まったクリストフの怪談が、今になって彼女の脳裏に貼りついていた。
 応接間からいなくなったが、使用人が探しにくる気配はない。早く見つけなくては――
 廊下の柱の陰に身を潜めながら、エルゼは突き当たりで左右に分かれた路を見つめた。右は応接間のあった方向だが、左はまだ先に進んでいない。
 よし、と彼女は気を引き締め、左の廊下を窺った。かすかな足音が奥から聞こえ、すぐにもといた柱の陰へ戻る。心臓がバクバクと暴れ出した。
 体を硬直させて視線だけ突き当たりに向けると、赤茶色の髪の男が歩いてきた。その姿にすぐ、ステンデルだとわかる。息子のノルベルトとよく似ている。彼はそのまま右の廊下――応接間の方向へと進んでいった。
 足音が遠くなった。部屋に誰もいないのを見れば、城内を兵士や使用人が探し、たちまち見つかってしまうだろう。それでは遅い、急がないと。
 足音が消えていくのを耳で聞き、エルゼは素早く左へ曲がろうとした。
「侯爵サマ!」
 その曲がろうとした先から声が聞こえ、彼女の肩は跳ね上がった。同じだけの速さで、再び柱に隠れる。喉から悲鳴が漏れるところだった。
 左の廊下から、小さな男が現れた。薄汚れた姿は少女の知っている人間だった。池のほとりの水車番だ。
「どうした」
「あの……これで、オラはホントに、侯爵サマに雇っていただけるんでしょうか?」
「ああ、工場の職人にしてやる。賤しい仕事からは解放されるだろう」
 水車番の嬉しそうに笑う声が聞こえた。水車小屋の番は、昔から魔術的で賤民の仕事とされている。卑賤な仕事から脱却するために、彼はステンデルに協力したということか。エルゼは知らずに両手を握りしめた。
「明日にでも仕事を与えてやる。それまで家畜小屋にでもいろ」
 新しい仕事をもらえるという内容は水車番にはさぞ魅力的だろうが、少女には些(いささ)か疑問だ。侯爵ほどの貴族が、農民のさらに下に位置する賤民の相手をするなんて、おかしい。直接、口をきくことさえ憚られるのに。
 水車番は深々と頭を下げ、踊るような足取りでエルゼの方へ向かってきた。少女は瞬時に身を固くし、頭の中で聖アネルへの祈りを高速で唱え続けた。男はあまりの喜びに周りが見えないらしく、彼女に気付かず通り過ぎていった。
 右の通路から、ステンデルの鼻で笑う音が聞こえた。ああ、やはり約束を守るつもりはないのだと、少女の心に冷たい風が吹いた。
「永遠に万能薬を生み出す体が手に入れば、時間稼ぎの下手人くらい必要だからな」
 エルゼは眉をひそめた。『永遠に万能薬を生み出す体』の意味がわからない。だがそれが手に入れば、彼は用済みとして放り出されるのだろう。下手人ということから、おそらくヴィタを殺した張本人として。その際、どんな屁理屈がつくのかはわからなかったが、仮定で話しているということは、まだあの青年は無事ということだ。急がなければヴィタが殺されるのではという思いと、まだ無事なんだという思いが入り交じる。
 右の廊下から足音が完全に聞こえなくなると、彼女は今度こそはと左の廊下へ向かった。
「侯爵サマー! もう一つお聞きしたいことが――
 ちょうど突き当たりを左へ曲がろうとしたところに、水車番が引き返してきた。エルゼはギクッと反射的に動きを止めようとしたが、見つかったのであればこのまま走るべきだと、そのままの速さで左へ曲がった。
「お、お嬢サマっ! アンタ、なんで」
 水車番の狼狽した声を背に、少女は走った。先に何があるかわからない廊下を全力疾走する。後ろから荒々しい足音が聞こえた。追ってきてる!
 足に絡まるスカートをたくし上げる。腿が見えてはしたないとか気にしていたら、捕まってしまう。しかし、確実に足音との距離は縮まっている。貴族の小娘と大人の男だったら、脚力の差は歴然だ。
「ま、待てぇ!」
 訛った声がすぐ近くから聞こえてきた。
 エルゼは、外套の内ポケットから灯石や石ころを取り出して、後ろへ投げつけた。もっと有効な使い方を考えていたはずなのに、咄嗟の判断ができない。
 絵の具も投げつける。新しいのを買わなくてはならないのが、残念で仕方ない。
 それでも水車番は必死に追ってくる。さらに後ろからステンデルも見えた。
 ここで捕まってはいけない。ヴィタのもとへ行かなくちゃ。そして、連れて帰らなきゃ。温かい料理、ハンナのマドレ――もとい、クッキーも待っている。ターニャもクリストフも呼ぼう。ファクスさんにセルタを習おう。ギドさんの罵声だって聞いてやる。
 目の前に地下へ続く階段が見えた。
 エルゼは短剣を取り出すと、外套のボタンを外し、両手でなるべく大きく広げて脱ぎ捨てた。後ろで呻く声が聞こえたから、きっと邪魔にはなったのだろう。走る勢いはそのままにして、階段を駆け下りる。いつ転げ落ちるかわからないスピードに、心臓も頭も爆発しそうだ。エルゼは嵐の勢いで神頼みをした。叫ぶ声は喉から出そうだ。
 聖アネルも聖フィデリオもどっちでもいい、むしろ、どっちもお願いします! ヴィタが無事でありますように!