一方、ヴィタは大きなあくびをした。手で口を隠すのが礼儀だが、それはできなかった。両手が自由ではないからだ。両手が、というのは語弊がある。全身が、自由ではないのだから。
「――眠いかい? それとも退屈かな?」
すぐ目の前に立つノルベルトは、いつもと変わらぬ穏やかな声でそう問うた。ヴィタと知り合ってから変わらない、変わらない声だ。
「疲れた。移動ばかりで」
溜息混じりに亜種の青年は答える。体は鎖で巻かれて、石柱の根本に繋がれていた。座っていられるのが、せめてもの救いだ。
「まあ、そうだね。僕も疲れた」
「ノルベルト、司祭はまだか。早く始めろ」
椅子に座ったステンデルが、苛立たしげに手すりを指で叩いた。
「司祭でしたら、もうすぐ着くはずですよ。今しばらくお待ちを」
息子であるノルベルトの表情は、床に座ったヴィタからはよく見えない。ただ、普段の声音とはわずかに違う何かが滲んでいる。
こうして並べてみると、親子はとてもよく似ていた。優美な外見も、服装の趣味も、紳士的な仕草も。ただ細かい表情や雰囲気にわずかな違いを感じる。そうでなければ年齢が違うだけの、まさに生き写しだ。
石造りの壁と床がむきだしの部屋だった。窓はない。地下の牢か。拷問部屋かもしれない。大きな鉄の寝台がある。
「……貴方たちは、俺を殺そうとしているの?」
「お前が知ってどうする」
ヴィタの問いに、ステンデルはピシャリと返した。それでもめげずに、亜種の青年は続ける。
「万能薬の材料にするんだろう?」
「……やはり同胞はわかるものなんだね」
ノルベルトは部屋の隅に置かれた棚をちらりと見た。薬品の箱や袋が置かれている中、黒い小瓶が少数並んでいる。あれが、ノクス族が殺されて作られた万能薬なのだろう。
ヴィタの言葉には、それなりの根拠がある。保存会の人間はノクス族の城を訪れるので、間違って地下の洞窟へ足を踏み入れてしまう者もいる。王都との移動装置がある部屋と、洞窟への階段が近い位置にあるからだ。危険を察知してすぐに引き返す者もいれば、怨念たちに強い恐怖を植え付けられる者もいる。誰しも一度はその洗礼を受けていた。
その怨念たちの声は、赤い髪は同胞の血の汚れだと、ヴィタに呼びかけた。確かな声ではないし、確かな証拠もない。ただ、何かあるのかもしれない、とぼんやりと彼は思っただけだ。この誘拐で、そのことを思い出した。
が、当の本人には黙っていた。特に言う必要がないからだ。本人が認めているのに、理由を突きつける必要性を感じない。
ノルベルト、と椅子に座った父親が釘を刺した。あまり喋るなと言いたいようだ。
「でも、まだ万能薬があるのなら、俺一人殺してもあまり意味がないよね」
ヴィタはふと浮かんだ疑問を口にする。ノクス族一人から作れる万能薬は、多くて小瓶半分ほど。まだいくつかのストックがあるのだから、彼一人殺しても、量が極端に増えるわけではない。
「お前も黙れ、それとも命乞いか?」
「命を乞う必要もなくなるのに」
赤毛の男が呟いた時、扉がノックされた。入れ、というステンデルの声に、使用人が一礼をして入ってくる。
「ドリーセン司祭が到着されました」
「わかった。こちらにご案内しろ」
先程から出てくる司祭に、何の役割があるのか、ヴィタは考える。信仰者の祈りではノクス族は死なない。悪魔や悪霊ではない。それより腰に挿した剣で刺せばいいだけの話だ。
続いてノックの音が響き、兵士らしき男が入室してきた。彼はステンデルの耳元で何やら囁く。侯爵がわずかな間を置いて、下がるよう指示し、椅子から立ち上がった。
「あべこべ村から小鳥が飛んできたらしい」
そう告げて、彼は部屋から退出した。後には目を見開いたノルベルトと、意味がわからないヴィタが残る。
低い声にヴィタが顔を上げると、赤毛の男が笑っていた。
「すごいな、あの子は。どうやって来たかは知らないが、こんな子だったかな。あの時、腕や足の一本くらい斬っておけばよかった……」
ノルベルトの琥珀色の瞳が、暗く沈んだ。それなのに、口元は微笑んでいる。そのちぐはぐさに恐怖を感じるより早く、ヴィタはあの少女の顔が脳裏に浮かんだ。
「……エルゼが、来たの?」
「さあ。父上の言葉通りなら、そうかもしれないね。
さすが、あべこべ村だ。姫を助ける騎士の役をやっちゃうんだから」
「…………どうしよう。俺、すごくかっこ悪い」
ノルベルトが騎士物語を例えに出すと、青年はガクッと項垂れた。彼自身、騎士でもなければ王子でもなく、ましてや英雄でもないのだが、助けられる姫の役が自分ということが尊厳を傷つけているようだ。
「よかったじゃないか。初めて会った時より随分、好かれているようで」
ヴィタは自分の気持ちを表現するの下手だと思ってたんだけど、とノルベルトは人の悪い笑みを浮かべる。青年は至極真面目な顔で、その言葉を聞いた。
「下手だよ。多分、肝心な気持ちは半分も伝わってないと思う。
だからこれから、伝えていくんだ」
万能薬の材料になる気など、さらさらない目だ、と彼を見た赤毛の男は思う。嫌になるほど未来を見つめる意志の強い瞳に、口の端がつり上がるのを感じた。
「まったく……いとも簡単に」
先程から会話をしていると、ノルベルトの気持ちがわからない。保存会の人間であるのに、ノクス族から万能薬を作ろうとしている。それなのに、エルゼや自分を嫌悪している様子もない。沈んだ暗い色が瞳に映るのに、始終穏やかに笑っている。対極にある二つのものの、一体どちらなのかがわからない。どちらもあわせ持っている。ヴィタはそこに、ノルベルトが偶に垣間見せる儚さを感じた。
「ねえ、ノルブは何がしたいんだ? 親父さんが万能薬作って何か企んでるのはわかるよ。
――で、ノルブは?」
黄みがかった赤の瞳が、その問いに細くなった。
「何が、したいと思う?」
簡単に答えはくれないらしい。低く出された声は、楽しげであると同時に怒気も含んでいた。感情を率直に伝えようとしていない。むしろ奥へ奥へとしまいこむような印象を受ける。
「保存会を、もう裏切った?」
「もとより信頼も寄せてないし、本心も見せていない」
「親父さんのため?」
「ヴィタ」
淡々と訊ねる青年に、ノルベルトは諭すような口調で名前を呼んだ。ヴィタはその顔を見上げる。
笑っていた。顔を歪めて。瞳だけがどんよりと暗く、ランプの明かりの中で揺れていた。
「世間話も終わりにしようか」