第三章

02

 湿っぽい雰囲気の中、温かい夕食を家族全員で食べた。取り乱していた娘が思いのほか落ち着いていることに、両親は安心したようだ。けれど、旅行の思い出話を聞き出そうとはしなかった。このお料理は美味しいとか、この間は誰それとこんな話をしたとか、肌の上を滑っていくような会話がポツポツと続き、夕餉の席は終わった。
 その後、両親と使用人に見つからないよう、姉弟は庭で待ち合わせた。ユストゥスは片手で姉の手を引き、片手でランプを持ち、屋敷の裏に広がる森へと歩いて行った。
「姉さま、父さまが昔してくれた話を憶えてる?」
 獣道を歩きながら、小さな声で彼は切り出した。夜の森は暗く、静かだ。こんな時間に森をうろつくことはない。だが、怖がってもいられない。繋いだ手とは反対の手に短剣を握り、エルゼは前だけを見る。
「いつの頃の話?」
「ボクたちがうんと小さい頃。父さまがまだ子どもの頃の冒険の話」
 姉の方は全く憶えていなかった。沈黙した彼女に、弟は構わず続ける。
「父さまが森で迷子になって、気付いたら知らない山の中にいて、裾野に大きな町があったっていう話。それで怖くなって、父さまが無我夢中で引き返したら、ハイマートでは十日以上も行方不明になってたんだ」
 大人たちは神隠しだって騒いでたらしいけど、と話しながら、ユストゥスは周囲の木を確かめながら進んでいく。
 話の内容を聞いても、エルゼにはぴんとこなかった。もしかしたら聞いたことがあるかもしれない、でも聞いたことがないかもしれない、はっきりと判断できず、なんとも気持ち悪い。
「姉さまはもう寝ちゃってたけど、その時ボク、父さまに訊ねたんだ。それはどこだったのって。そうしたら、大人になって行ったアーベンにそっくりだったって、父さまが」
「アーベンって、ステンデル侯爵のお城がある……」
 話が繋がった。その時、引っかかったまま放置していた記憶が、突然呼び起こされた。あの時に覚えた既視感の正体を、エルゼはようやく理解した。
 ユストゥスが木の幹に描かれた白い記号をライプで照らすと、それを足元の茂みへ向けた。
――移動装置」
 保護区域で目にした、亜種の技術を使った装置。周囲に草が茂り、鉱石の床も汚れているが、確かにそれは岩山や森の奥で見た青だ。
 この記憶も判然としない。だが、いつかはわからないが、今見ている光景を幼い頃にも見たことがある、と彼女は思い出した。
「ボク、偶然これを見つけた時、きっと父さまはこれのせいで行方不明になったんだ、って思ったんだ。十日も行方不明になりたくないから、ボクはアーベンへ行ってないけど」
 そうだ、あれも移動する際に時間を要するものだった。ステンデル侯爵領まで、迅馬で片道六日。往復だと十二日。十日以上も神隠しになっていた、という父親の話と合致する。
 アーベンにそっくりな町、がアーベンである保証はない。これで移動しても、間に合わない可能性だってある。だが、行かないで部屋で泣いているより、十日くらい行方不明になっている方が、ずっといい。
「ありがとう、ユス」
「じゃあ行こう、姉さま!」
 やる気満々の弟に、エルゼは首を横に振った。
「危ないもの、ユスは屋敷に戻りなさい」
「危ないなら、姉さまだって同じだよ! 大丈夫! ボク、剣術だって得意だもの」
 それまで護身用だと言い聞かせて見ないようにしていた、彼の背中の剣に目をやる。練習用のなまくらを装備して、英雄ごっこをしながら行ける場所じゃない。そこでエルゼは、あれ、と気が付いた。柄の宝飾、形、長さ――
「ちょっ! ユス、それ、家宝の剣じゃない!!」
「フィデリオさまが守ってくれるかなあって」
「ダメ! 返してきなさいっ!! 絶対、連れていけない!」
 得意げに笑うユストゥスに、姉は真面目に怒った。もとより次期当主である弟を連れていくつもりはなかったが、家宝まで持ち出したとなると尚更だ。
 彼女は溜息を吐き、神妙な顔に戻った。
「……それにね、ユスには私のことを父様たちに話してほしいの。神隠しだと思われたら、困るし」
「怒られちゃうよ、姉さま。父さまも母さまも大目玉だよ」
「ヴィタと一緒に戻って来られたら、いくらでも怒られてあげるわよ」
 それでもまだユストゥスは拗ねた顔をする。言い聞かせるように、エルゼは弟の頭を撫で、顔を覗きこんだ。ずっと小さい時から、この構図は変わらない。彼はどんな時でも姉と一緒がいいのだ。だが、尊敬する姉の命令は、絶対だった。
「戻ってきたら、皆でご飯食べようね」
「美味しいケーキとハンナのクッキーもね」
 ぎゅっと抱きしめあうと、エルゼは体を離し、移動装置の上に乗った。ユストゥスに振り返る。心配そうな彼の顔のはるか遠く後方に、こちらへ向かってくる人影が見えた気がした。ランプを持った丸い影と細い影。何か言おうと少女が口を開くのと同時に、青い光が視界いっぱいを覆い、彼らは見えなくなった。青い沼に沈む。
 光が四散し、次に見えた景色は、青い空だった。木々の合間から光があふれ、ひんやりとした風が吹く。視界が開けている方向に歩いていくと、エルゼは細い山道へと出た。ゆるい坂道が蛇行して山の麓へと伸びる。初めて見る都市が、そこには広がっていた。石の市壁、集合して並ぶ建物。憧れの王都に似ているが、王都を俯瞰で見たことがないので大きさを比べることはできない。
 ここが本当にステンデル侯爵領のアーベンなのか、そして今が何日後なのか、それを確かめるためにも、あの町へ行ってみるしかない。少女の細い足が、山道を麓へと下り始めた。
 もし、ここがアーベンではなかったら。ずっと日にちが経っていたら。そもそもステンデルがヴィタの誘拐と関係なかったら。可能性を考えていくと、どうして自分がこんな無鉄砲な行動をとったのか、理解できなかった。でも、もし、どんな真実が先に待っていたとしても、自分の行動で何かが変わったとしても、変わらなかったとしても、きっと受け入れることができるだろうと、エルゼは不思議な安心感を持っていた。
 穏やかな気分だ、とても。こんな気持ちの時は、ヴィタと一緒に笑っていたい。
 エルゼはくすりと笑って、麓の町へと向かった。