エルゼたちが城を出立する日になり、ノルベルトとグイードが迎えにやって来た。地下の扉の奥にある移動装置から、彼らは城へと入ってくる。
二人が目にしたのは、眠そうに眼を瞬(しばた)かせるエルゼと、立ったまま寝るヴィタの姿だった。ファクスによると今朝は、仲良く二人揃って食堂に姿を現したそうだ。
グイードが溜息を吐き、蔑むように伯爵令嬢を見た。
「ったく。貴族のお嬢様は、いやよいやよ言いながら、尻が軽い」
「ちっがっいっまっすっ!! ギドさん、そのクチ直さないと、絶っ対っ出世できないっ!」
そんなはしたないことしないと怒鳴る少女を、諌める声はない。周りは言い分をまともに聞いていないのだ。
絵が完成して気が付けば、夜が明けていた。朝食の時間だ、と急いで二人で食堂へ向かったところ、ファクスに夜をともに過ごしたと勘違いされたのだ。ヴィタは、大事な娘さんなんだから……、と父親に叱られていた。
「ヴィタ、婚礼の儀はまだなんだから、一応。そりゃ頑張れって書いたけど」
朗らかに笑うノルベルトを睨みながら、手紙にそんなことを書いたのか、とエルゼは訝しむ。当の青年は眠りの世界へ行っているので、否定のひの字も出てこない。
年長者は若者をからかって楽しんでるんだ、その対象が自分であることに彼女は唇を尖らせた。
城を出て移動装置へ向かう途中、エルゼはファクスに改めて礼を言った。見知らぬ地で失礼なことも多かったと謝った後、セルタがとても美味しかったから今度レシピを教えてほしいと告げた。彼は喜んで二つ返事に承諾した。
「絵が完成したんだってね、おめでとう。また今度、エルゼさんの絵を見せてください」
そう言うファクスの顔はとても優しくて、この人はきっと何もかもお見通しなんだ、と少女は笑った。また婚礼の時に、と彼は両手を振って別れた。
行きと同じ道筋を辿り、馬車に揺られて森を行く。馬車は二台、前車にエルゼとヴィタが乗り、後車にノルベルトとグイードが乗った。帰りは保護区域でヒュルメンに会えなかった。それが少女の心残りだった。
馬車の移動が二日三日と続くと、エルゼの疲労もかなり溜まってきた。ハイマートを出てから十日以上経っている。ノクス族の城は快適に過ごせたが、初めて行った場所では神経が芯から休まることはない。
ようやく故郷に戻れる日も、延々揺られる馬車の中では睡魔が次々と襲ってくる。向かいに座るヴィタも半分眠っている。なんでも昨夜、『世界の名所辞典』というものを読み耽っていたそうだ。それだけ読書に没頭できるのも立派なことだと思うけど、と青年の寝顔を見ながらエルゼは思った。
ハイマートに帰ったら、どうしようか。周囲が進めている通りに婚礼を行う気は、彼女にはなかった。ノクス族の城で彼ら親子と過ごして、絶滅亜種保存委員会が事務的に行っている縁談に、憤りを覚えたのだ。万能薬目当てで乱獲をした人間たちも、人間の繁栄のために保護する彼らも、同じ種族として許せる気がしない。エルゼは重い瞼を必死に持ち上げて、そう思った。しかし沸々とわく怒りも、眠気には敵わない。
茫洋とする意識の中、彼女は知らぬ間に眠りの檻に囚われていた。
ガタンッと、馬車が揺れたことで少女は意識を取り戻した。眠っていたのか、とまだ働かない頭が認識する。ヴィタもいつの間にか完全に眠っていたようだ。まだ起きない。神経が図太い、と彼女は苦笑する。
迅馬の嘶きが聞こえた。道に枝でも落ちていたのだろう。ガタッと馬車が傾いた。
突然、馬車の扉が開いた。後方の馬車に乗っているノルベルトかグイードだろう、と瞼をこすりながらエルゼがそちらを見ると、覆面を被った男が乗り込んできた。血で濡れた剣を片手に。
肩が驚いて跳ねるが、それ以上の反応を見せない。喉が引きつって、叫び声を上げられない。手足が動かなくてヴィタも起こせない。どうしてまだ寝てるの、起きてよ! そうだ、殴る――蹴らなくては。しかし、彼女は怖くて動けなかった。
覆面男の手が伸びる。何かを思い出そうとするが、上げることのできない悲鳴が蓋をしてそれは言葉にならない。
硬直した少女には見向きもしないで、覆面男はヴィタの首根っこを掴んだ。そのまま馬車の外へ引きずり出す。
「――ふぇ?」
寝ぼけた阿呆な声が上がる。エルゼが最後に見た彼の顔は、寝起き特有のぼんやりとしたものだった。そのまま男は、ヴィタを隣につけた馬車に押しこんだ。バタンと荒々しく扉が閉まる。普通の扉にある家紋は、同色の布で隠されていた。そのまま馬車は走って行った。
「ちょっ!」
弾かれたように彼女は、開いた扉から様子を見る。
後方の二人は? 後ろを向くと、ノルベルトが馬車から馬を外して跨ったところだった。従者が血を流して苦しんでいる。剣で斬りつけられたのだろう。血の赤に気が動転しそうになるが、必死に感情の舵を取る。
「ノルベルトさん!」
馬車を降りて駆け寄ると、手綱を握ったまま彼は早口にまくし立てた。
「今から追います! ギドが覆面の男に刺されて怪我をしました、頼めますか!?」
壊れた首振り人形のようにエルゼが頷くと、ノルベルトは走り去った馬車を追って駆けて行った。
怒涛の勢いで起こった出来事に、少女はしばしポカンと口を開けて呆然とした。とにかくわかることは、ヴィタが連れ去られたことだ。
後ろの馬車からグイードがノロノロと降りてきた。右の太腿を刺されて、濃紺の制服は血で黒く変色している。エルゼの体が震える。そうだ、手当、何を、どうして、何が、ヴィタ、どうして――
「落ち着け」
血のついた手で、グイードが眼鏡を押し上げた。右足を引きずって前方の馬車を確認する。エルゼは振り返り、馬が首を切られて死んでいることに、ようやく気付いた。馬車の陰から見える従者の手は、ピクリとも動かない。心臓の音が、頭の中で鳴っている。
「馬はなし、か。
フォイルナー嬢、少し行ったところに村があるはずだ。馬を借りてきてくれ」
道の先を指差し、指示を出すグイードに彼女は動揺したまま首を傾げた。言葉で訊ねたいのに、それが出てこない。手の指が震えるのに、感覚は木の枝のように硬かった。
「手当ては自分でできる。さっさとハイマートへ戻って対策を練らないと」
「…………ノルベルトさんを待たなくていいの?」
言外に彼のことを無視した眼鏡の男に、エルゼは必死に声を絞り出した。それとも緊急の時にはハイマートで落ち合うことになっているのだろうか。でも、『対策を練る』と言った。
……ヴィタは? ハイマートに戻れば、また会えるんだろうか。
「ノルブは戻ってこない。おそらく」
グイードは断言した後に、推量の言葉をつけ足した。それでも声に迷いはなかった。
何がどうなっているのか、少女にはさっぱりわからなかった。あまりに突然すぎて、現実感が乏しい。
「ほら、さっさと行く」
急かされるまま、エルゼは道の先へ向かった。手も足も言うことを聞かなくて、上手に走れない。夢の中のような感覚。走っていると思うのに、手や足の筋肉が動いている実感がない。
エルゼの混乱した頭が繰り返す映像は、最後に見たヴィタの寝ぼけた顔だった。