第二章

09

 崖の横に作られた階段を上り城壁沿いに歩くと、二人はすぐに玄関前へと戻ってきた。城内と地下をさまよっている間に、西の空は赤々と燃えていた。広間の窓には橙色の強い西日が差し込む。
 夕食後に絵のモデルの約束をし、二人は各々の部屋へ戻った。食堂で再び顔を合わせた時には、エルゼは群青色のドレスを着て、髪も顔もいつもと変わらなかった。泣いたとか取り乱したとか、そういうことを除いてヴィタは洞窟の話をし、ファクスは少女の体調を心底心配した。
 お詫びというわけではないがね、と切り出して、彼は食後にノクス族の伝統的なケーキである『セルタ』を振る舞った。自分で料理するほど甘党で、明日にはハイマートへ帰ってしまうからと作ってくれたらしい。クッキーのように硬い環状の生地に、果実のソースがかかっている。中は二層に分かれていて、間には見たことのない果物がふんだんに挟まれていた。エルゼはあまりの美味しさに半分近くを平らげた。もう半分はファクスがぺろりと胃の中に収め、ヴィタは一人前を食べた。
 少女が自室に戻り、エプロンを着て髪をまとめ、道具を整理したところでヴィタが来た。窓辺にあるイーゼルの傍に椅子を置き、彼はそこに座った。
 夜の光の中でも、ヴィタの黒髪の印象は変わらない。昼間と同じ色だ。灯石の光の中では、油絵の具の方が色味が変わって見えた。黒色、様々な色を加えてみるが、遠くなり近くなりを繰り返すばかりで、同じにはならない。
 色を作っては青年の黒髪と比べるエルゼは、ふとこちらを見ているヴィタに苦笑した。
「ごめん、暇でしょ」
「どうして? 見てると面白いよ」
 どこが、と内心で呻いて、少女の筆がグチャグチャと絵の具をかき混ぜる。
 多くの色を混ぜすぎて、混沌とした黒になってきた。一度、綺麗にしてしまおうか。エルゼは悩む。
「……昼間、」
「ん?」
「墓参りに行ってたんだ」
 誰の、と訊かずとも凡(おおよ)その予想はつく。少女は顔を上げ、ヴィタを見た。青年は穏やかな顔で優雅に座ったままだ。
「個別の墓はないんだけど、霊廟があってね。ノクス族を産んで死んだ人たちが眠ってる」
 胸に闇が降りる。その感触が、黒い絵の具を作る手にのる。同じ黒色でも、それはどんよりと重い。
 ヴィタは構わず続けた。
「その中には望まずに死んだ人もいると思うんだ。ずっと昔は戦争をしていたしね。
 でも親父は、それは幸せそうに俺の母親の話をするんだ。きっと、全てわかってて産んでくれたんだろうって、会ったことないけど、そう思う」
 俺はその腹を食い破っちゃったけど、と彼はぽつりと呟いた。エルゼが視線をわずかに横に向けた。視界には入らないが、すぐ傍の棚にはジェシカの肖像画が飾ってある。
 沈黙が続き、青年は頭を掻いた。
「だから、そうなりたいんだ。心に嘘吐いたり、嫌だなって思いながらだったら、悲しいから」
 ――納得しなければ意味がない。
 父親であるファクスと同じことを言う、と彼女はノクス族の青年を見つめた。過去を戒める言葉じゃない。きっと納得したから彼の母親は、ジェシカはこの城で過ごし、子どものために死んだのだ。混沌とした黒にさらに絵の具を混ぜながら、少女は亡き人のことを思う。
「エルゼは絵を描きたいんだろう? 夢もある。それで納得って、難しいだろうけど……。
 正直、羨ましいんだ。俺には、そこまで熱中できることがないから」
 自嘲気味に笑うヴィタに、エルゼの方が動揺した。
「……本は? あれだけ読むの、すごいじゃない」
「好きだけど、それで叶えたい夢があるわけじゃない。
 だから、夢があるのに死ななきゃならないのって、わからなくて」
 自由が極端に制約される代わりに、生活は保障される。身の安全も。彼ら自身に関する権利は、彼らにはないけれど。そんな状況なら、夢も選択肢もないに等しい。
 絶滅亜種保存委員会は、人間の繁栄のために絶滅に瀕する彼らを保護している。そう、ハイマートの屋敷でノルベルトは言っていた。きっとファクスとジェシカも、そうした中で夫婦になったはずだ。そうした中で、ヴィタを産んだ。
 気持ちを落ち着かせるように、エルゼは筆で黒色を作っていった。パレットに出した色を混ぜていく。遠い。
「……じゃあ」
 何か、何か言いたいのに、感情ばかりがあふれ出る。怒り、悲しみ、寂しさ、優しさ、わけのわからない衝動まで。
 絵筆が忙しなく色を混ぜた。赤、青、黄、緑、白……
「………………じゃあ、一緒に見つければいいわ」
 どの色をどれくらいの量で混ぜただろう。憶えていない。ただ絵の具を足していったから、パレットに大量の黒ができていた。月明かりとランプの光で照らされたそれは、確かに夜中に見た、昼間見た、今見た――
 ――この色だ。
 見比べるようにエルゼが顔を上げると、ヴィタの驚いた紫紺の瞳と視線が合った。
 綯(な)い交(ま)ぜになっていた感情が、まっ平らになる。地平線が見えた気がした。
「いろんなものを見て、いろんなことを知って、そうして探せばいいのよ」
 何故だか彼女には、その言葉が不可能な気がしなかった。ただ気分が高揚していたからかもしれない。でも、そうじゃない。エルゼは彼が探せることを知っていた。
 ヴィタの紫の双眸が細まる。嬉しそうに微笑む表情は、一番近くて遠い誰かを思わせた。
「一緒に……」
「……一緒に。いろんなところへ行って、絵を描いて、探して……」
 言葉にすると、それは現実味を帯びる。できない未来ではない。根拠のない確信をもって、二人は同じタイミングで笑った。
「行こう、二人で。すぐにでも」
 ――良い絵になりそう。
 黒い絵の具が絵筆にのる。キャンバスにそれを塗っていきながら、エルゼは楽しげに声を上げて笑った。