第二章

06

 完全に闇となった世界に、ポツポツと小さな光が見える。廊下の窓から見た保護区域は、夜になればハイマートと変わらないものだった。
「足元、気を付けて」
 前を歩くヴィタの声に、エルゼは振り向いた。夕食の席で会った彼は、城用の服に着替えていた。黒い長衣は旅をしている時と変わらないが、肩から胸にかけての刺繍が、まるで星と雲が美しい夜空のようだ。
 エルゼも足元の段差に注意を払い、螺旋階段を上っていく。壁の明かりだけでは、足元は完全に明るくならない。
「ノクス族の食事は口に合った?」
 わずかに後方の少女を振り返りながら問うたヴィタに、当のエルゼは相好を崩して頷いた。
「美味しかった! 特にあの、赤いスープ」
「ギントカゲの唐辛子煮込み」
「そう、それ! あれ美味しかったわ!」
 口にした時に広がる味を、彼女は幸せそうに思い返した。
 ギントカゲの唐辛子煮込みは、確かに美味しい。しかし、真っ赤な色や中に入ったトカゲのブツ切りは、果たして妙齢の女性が好むものなのか。味も、辛いし酸味が強いのに。
「あと、ええと、タマゴの包んだ」
「ああ、スズメイワシの塩タマゴ包み」
「あれも美味しかった!」
 彼女の顔の幸福感はさらに増す。
 ヴィタも嫌いではないが、あれは塩っ辛くて少量しか入らない。食事の席の料理として数えられるが、父親が酒の肴につまんでいる印象の方が強い。決して小さくないタマゴの包みを、エルゼは二つも皿に取っていた。
「見たことないお料理ばかりだったけど、どれも美味しかった。
 ファクスさんとも、ケーキの話ができたし」
 食後の紅茶を飲んでいる時、彼女と父親がお菓子の話題で盛り上がっていた。
「ファクスさんって、ちょっとびっくりしたけど、甘党なのね」
 エルゼは、紅茶に三つも角砂糖を入れていた彼の父親を思い出した。そこから、どういうケーキが好きだとか、人間の世界にはこんなケーキがあるとか、ノクス族のケーキにはこんなものがあるとか、ケーキ談義に花を咲かせたのだ。お互いの世界のケーキに興味を持ち、今度作ろうとか、いつか持ってきますとか、肝心のヴィタをそっちのけで熱く語りあった。
 甘いものが好きなことも、辛いものが好きなことも、変なことではない。ただ、ギントカゲの唐辛子煮込みとスズメイワシの塩タマゴ包みが好きで、ケーキも好きで、と積み重ねていくと、彼女の味覚が些(いささ)かわからない。
 ふと少女を盗み見ると、至極幸せそうな顔で笑っていた。そんな顔が見られるならば、味覚のことなど些末な問題だと、ヴィタは疑問を一瞬で解決させた。
 螺旋階段が終わると、暁光の塔と同じような直進の階段になった。フロアはなく、左右に扉が一定の間隔で並んでいる。深更の塔は暁光の塔と構造が多少異なることを、エルゼは理解した。外から塔を見た時、どれも違う方向に曲がっていた。
 一番手前にある右の扉を指差し、
「こっちが俺の部屋」
 ヴィタは自身の部屋に少女を案内した。
 扉を開くとエルゼの目にまず入ってきたのは、左手の壁一面、天井まで続く書棚だった。そこへぎっしりと本が並んでいる。衣装箪笥と机が右の手前に配置され、奥の窓辺にベッドがある。本棚にも圧倒されたが、ベッドや机の脇にも本は積まれていた。
「すごい……これ、全部読んでるの?」
 驚いてヴィタを見ると、彼は少し照れながら頷いた。
「こっちはノクス族の本。こっちは人間の本。あとは文学とか、科学とか」
 少女は分厚い背表紙を眺めながら、その説明を聞く。ノクス族の本は、文字からして全くわからなかった。何と書いてあるのか予測もつかない。人間の本は様々だ。文学や演劇、科学や哲学の論文集まで。人間の生活や文化に関する子ども向けのものも多かった。それを見て、エルゼは破顔する。ここからマドレーヌのことも知ったのだろう。
「あ、そっちは……ノルブやギドがくれた本」
 見ると、人間のマナーやファッションの本が並んでいた。なるほど、ノルベルトたちが持ってきそうだ。
「ノルベルトさんやギドさんは、ヴィタにとってお兄さんみたいな人たちなのね」
 ノクス族の青年が彼らと接するのを見ていれば、たとえ亜種とそれを管理する立場とはいえ、長い年月の間に積み重ねられた信頼関係がよくわかる。親子二人しかいないのであれば、年の離れた兄弟のようにヴィタが感じていても不思議ではないだろう――二人の男がどう思っているか、それはエルゼの想像の及ばないところだが。
「そうだね。今まで保存会の人は何人か会ったけど、年の近い人はいなかったから」
 青年の話す表情は明るく、彼らに対する思いが表れていた。この城以外に自由のない彼に、ノルベルトやグイードは外の世界のことを話したりしたのだろうか。そんな温かい光景をエルゼは考えてみたが、決してそうではないことも安易に想像させた。彼らにとって、これは仕事なのだ。
「でも、これだけ本を読んでも、実際に知識を活用しなければ意味がないよ」
 壁一面の書棚を見上げて、ヴィタが呟く。その様子に、少女は以前の自分の態度を恥ずかしく思った。彼が望んで世界から隔絶されているわけでも、望んで世間知らずなわけでもないのだ。誰かから教わったり本から学んだりしても、それが自分の身になるまで失敗はつき物だというのに。
 この亜種の青年は、ずっとこうして本だけがあふれた部屋にいなくてはならないのか――
「エルゼ」
 呼ばれて少女がヴィタを見ると、紫紺の瞳と視線が合った。自分は今、どんな目をしているのだろう、と彼女の冷静な一部分が考える。同情、ではないことを祈るばかりだ。
 ヴィタの口が何かを言いあぐねて、様々に形を変える。エルゼは言葉が出てくるのを待ちながら、苦戦している彼を見ていた。どんな言葉が出るのだろう、それを聞いた自分は何を思うのか。失望、期待……。
 整った手が、エルゼの顔に伸びる。頬に触れる寸前で少し躊躇った手のひらは、一拍置いて顔の輪郭に添えられた。丸く見開かれた碧眼がヴィタの表情を読み取る前に、その手はそのまま彼女の金髪の頭を撫でた。わずかな手の重みを、少女は自身の頭に感じる。
 ――あれ、今? 彼女は呆けながら、ぐるぐると頭が回る音を聞いた。
「…………、旅で疲れたし、今日はゆっくり休んで」
 ぽんぽんと軽く叩かれる。
 エルゼは途端に気恥かしくなった。顔が熱くなる。
「お、おやすみなさい」
 照れ笑いを向け、ヴィタの、おやすみ、という声を背中に受けてそそくさと彼の部屋を後にした。扉を閉める時に小さく笑って、そのまま走るように階段を下っていく。ようやく心臓が早鐘のように打つ音が聞こえた。
 何を期待してたんだろう、とエルゼは羞恥を覚えた。甘い雰囲気になってほしかったのか、そもそもそれでいいのか、いいのかというか、このままいくと死ぬことになるのに、ドキドキしてどうする、でも死にたくないならさっさと断ればいい、いや断れないんだけど立場的に、何かこのままズルズル好きになってどうするの私! と、頭の中で階段と同じ螺旋を描きながら、彼女は自問自答していた。
 せっかちに進む足を階段から滑らせ、早鐘の胸が瞬時に甲高い悲鳴を上げる。壁にしがみついたおかげで転がり落ちることはなかったが、エルゼは莫大な疲労を全身に感じ、そのまましゃがみ込んだ。
 ――部屋に帰って、さっさと寝よう。片付かない気持ちは、眠ればすっきりするものだ。
 立ち上がると、彼女はよろよろと一段ずつ階段を下り始めた。