「大体、あべこべ村の凶暴女なら、襲われた奴をぶん殴るくらいしろ」
目をつり上げて睨むエルゼを、グイードは叱咤した。途端に少女の勢いが削がれる。
「ぶ、ぶん殴るって……簡単に言わないでよ、怖かったんだから!」
言葉で噛みつくことはできるが、エルゼは今まで誰かを殴ったことがない。ターニャやクリストフをスキンシップとして軽く叩いたことはあるが、本気で暴力を振るった経験などないのだ。護身のために何かしなければと心ではわかっていても、恐怖で体が動かない。
「じゃあ、ヴィタが来なかったら大人しく犯されてたってわけか?」
「ギド! 不用意にエルゼを怖がらせないでくれ」
馬鹿にするように言い放った眼鏡の男から、ヴィタが彼女を庇う。思い出したのだろう、急に大人しくなったエルゼを励ますように、彼はなるべく明るい声を出した。
「大丈夫だよ、エルゼ。殴れなくても、蹴りの方が強いから! 人の足って、意外と力があるんだって」
どう励ましているのか、さっぱりわからない。蹴りの方が強い、という的外れな事実だけが少女の脳裏に刻まれた。
「それにノルブが犯人捜してるし、ハイマートに戻った頃には、もう怖いことなんてないよ」
ノルベルトは、フォイルナー伯と婚礼についての話し合いや書類の作成があるので、ハイマートに残っている。その間に、池のほとりでエルゼを襲った人物も捜す約束をした。襲った人物の特徴は、と訊ねられたが、少女が憶えているのは手だけだった。しかも暗闇の中、心が恐怖で埋め尽くされていたため、ひどく不鮮明だ。ヴィタは憶えているだろうと思ったが、どうやら助けることに必死だったらしく、外見は綺麗さっぱり忘れていた。蹴った感触ならわかる、と言っていたが、それでは何の手がかりにもならない。
結局、エルゼは『縁談』を断れないでいた。助けてもらった上に、自分の夢をキラキラした目で見るヴィタを憎からず思っていることを、彼女は渋々認める。しかし、このまま大人しく死ぬのもごめんだ。葛藤しているエルゼに、じゃあノクス族の生活を見ていただこう、と言い出したのはノルベルトだった。そういう経緯(いきさつ)のもと、エルゼたちはノクス族の暮らす保護区域へと向かっている。どうやら彼は、王都に住んでいるわけではないようだ。思えば保護されている亜種だし、当然と言えば当然だった。
ガタンッと馬車が大きく揺れた。慌てて三人とも、近くの手すりに掴まる。舗装されていない、それも傾斜のついた道を馬車が上っていくのが、座っていてもわかった。
「丘? ……山かしら」
「ハイマートから北東に馬車で五日。どこだと思う?」
家庭教師が生徒に質問するように、ヴィタが少女に訊ねる。エルゼは必死に頭の中の地図を引っ張り出していた。ハイマートの平原を抜け、北に広がる森を北東にひた走ると――
「……フェルステック山脈?」
「正解! すごいな、俺より地理が得意かも」
フォイルナー伯爵領から北東に進むと、王国南部を南北に分断する形でフェルステック山脈が横たわっている。フェルステック山脈は東部を縦断するハイリ山脈と王国南東部でぶつかり、その周辺は険しい山と深い森に阻まれ立ち入ることのできない地域だった。エルゼも両親に連れられて王都へ赴いた時は、山脈の西側を通ったことを思い出す。
「ヴィタ……何のためにカーテン閉めたと思ってんだ?」
「え? ……ああ、そうだね。ごめん、ギド」
怒りを押し殺した低い声に、ヴィタはさして反省の色もない口調で謝った。グイードは続けて注意しようとしたが、再び馬車が大きく揺れたことにより調子を崩される。
隣に座る男の小さな舌打ちを聞きながら、ヴィタはカーテンの閉まった窓を見た。
「もうすぐだ」
どこへ着くのだろう、と期待と緊張で胸を高鳴らせたエルゼは、見えない風景を必死に想像する。ハイマートでは遠くに見えた山々から、平原はどのように見えるのだろうか。空は近いだろうか。風の匂い、空気は? 暖かい、冷たい?
迅馬の嘶(いなな)きとともに、ゆっくりと馬車が止まった。辺りは静かだ。従者が外から扉を開くと、手前にいたグイードから先に降りる。その次にヴィタが降り、エルゼに手を差し出した。
「あ、ありがとう」
スカートの裾に気を付けながら少女はその手を取り、馬車から降り立った。
辺りを見回すと、そこはまだ山の中腹のようだった。背の高い木々が山の裾に育ち、地面にはあまり草が生えていない。山肌もごつごつした岩で、荒涼とした印象を受ける。来た道は細く曲がり、遠くの木々の間に消えた。
従者が後続の馬車から少女の荷物を下ろすのを見て、グイードは仏頂面をさらに強くする。
「しかし女は荷物が多くて困る。あれは何だ」
大きな四角い包みを指差した彼にエルゼは、
「レディの荷物の中身なんて聞かないでください」
ツンと伯爵令嬢の顔になった。わざとらしく溜息を吐き、グイードが歩き出す。馬車も入れない細い山道を登るようだ。
「もしかして、絵を描く道具?」
隣へ来たヴィタが小声で訊ねる。彼女の顔が綻んだのを見て、彼は正解であることを確信した。
「知らないところだし、絵を描きたいと思って」
実はキャンバスとイーゼルを持ってきちゃったの、と笑う少女は、キラキラ輝いて見える。ハイマートを離れて五日、エルゼは常に景色を見ていた。ヴィタ自身も狭い世界でしか生きてこなかったので見るもの全てが新鮮だったが、それは彼女も同じだった。空の色を、木々や葉や花を、建物を、人を、そこに存在する全てを、記憶に閉じ込めようと忙しなく瞳が動く。
彼女の様子に、ヴィタはこれから案内する場所を思い、破顔した。
「これから行くところは、ハイマートとは全く違うよ」
「本当!? じゃあ楽しみにしているわ」
砂利の混じった道にも関わらず、エルゼの足取りは軽やかだ。ヒールのある靴で歩く姿が危なっかしくて、いつでも支えられるようにヴィタはわずかに神経を尖らせた。
細い山道の両側は切り立った岩肌になり、空が狭く高く感じられる。その先に何があるのかと、道を曲がるたびにエルゼは緊張を高めた。
三方を崖に囲まれた行き止まりへ入ると、前を歩くグイードが立ち止まった。後に続く少女には、それが何を意味しているのかわからない。暗号を唱えると前方の崖が開くとでも言うのだろうか。
「念を押しておくが、ここはもう保護区域だ。ここであったことは他言無用。もちろん、縁談がどうなろうと」
グイードの眼鏡の奥の目が、凄むように細められた。エルゼは体を強張らせると、ゆっくり頷いた。
彼は狭い道の端に寄り、奥を目で示す。行き止まりの地面には、青い鉱石が埋まっていた。大人が一人、ようやく立てるほどの大きさだ。周囲には小さな石が六つ、不思議な配置で並んでいた。
エルゼは妙な既視感を抱いた。それを見たことがあるような気がする。いつ、どこで、何も思い出せないのに、確かに初めて見る新鮮さがない。
「『移動装置(ユベラルヒン)』という亜種の技術だ」
思考を巡らせていた彼女に、脇に立つグイードが説明する。
「この鉱石の特性を利用して、離れた場所に移動することができる」
「元々は戦時中の亜種の移動手段だったけど、今はあまり残ってないから珍しいかもね」
まじまじと移動装置を見るエルゼに、ヴィタは男の説明を補足した。
「……そうなんだ」
記憶の断片を掴み取ろうと格闘する彼女は、気のない声で呟く。珍しいのなら思い違いかもしれない、とエルゼは記憶の海から現実へと意識を浮上させた。
「ヴィタ」
グイードが、亜種の青年を呼ぶ。視線で促されて、ヴィタは少女の肩を叩いた。
「俺が先に行くね」
そのまま移動装置へと歩みを進め、鉱石の床に立つ。振り返り、彼は安心させるように柔らかく微笑んだ。
次の瞬間、足元の鉱石が淡く光ったかと思うと、青い光がヴィタを包みこんだ。青年と同化した光は再び、鉱石へと吸い込まれていく。まるで砂時計の砂が下へ落ちていくように、ゆっくりと光は消えていった。そこにヴィタはいない。エルゼは、あれ、と呆けた顔で辺りを見回した。
「移動したんだ、この鉱石と繋がる場所へ」
グイードが冷静な声で言った。
「私は最後に行くから、次は貴女がどうぞ」
仏頂面のまま恭しく手で示され、エルゼは恐る恐る移動装置へと近づいていく。ヴィタのように消える時、自分はどうなるのだろうと、未知への不安が先に立つ。
「……怖くないから、さっさと行け」
ピタリと鉱石の手前で足が止まった彼女に、眼鏡の男は嘆息混じりに言い放った。ムッと彼を睨み上げてから、エルゼは意を決して青い床に乗る。足元の鉱石が青い光を放ち、エルゼの視界を真っ青に染め上げた。目映い青一色の世界に、少女は頭痛と眩暈を覚える。
底なし沼に沈んでいくような感覚だった。視界一面が青に包まれていて、自分の体がどうなっているのか、自分のことなのにわからない。沼に沈みきったかと思うと、青い光は硝子が砕けるように四散した。
そこは岩山の狭い行き止まりではなかった。緑豊かな丘陵が目の前に広がる。離れた場所に移動する装置と言っていたが、あまりに急激な変化に頭がついていかない。視界の中が光の残像でチカチカする。エルゼは辺りを見回し、安心できる材料を探した。たとえば草花。たとえば木々や遠くに見える空。緩やかな丘はハイマートと似た風景なのに、小さな違和感を覚える。草の色、形、におい、それらが故郷とは異なる。見える空の色や雲の形まで違う。
「エルゼ」
名前を呼ばれて、彼女はハッとした。数歩離れたところにヴィタがいて、手招きをしている。周囲を注意深く観察しながら、エルゼはそちらに歩み寄った。足元に視線を落とし、自分の立っていた場所に移動装置の石が埋められていたことを、彼女はようやく認識した。装置の形がそっくりだ。
エルゼが移動してすぐ、鉱石の床が青く光り、グイードが現れた。人が出てくる時は消える時と反対で、青い光が石から現れ、人の形を作り、光りだけがひいていく。眼鏡の男が離れると、今度は荷物を持った従者が出現した。
「ここが、ヴィタの住む世界……?」
極端な違いがあるわけではないが、しかし確実に何かが違う。空気のにおいにまでそう思うのは大げさだろうか。そんなことを彼女はぼんやりと考えた。
「世界と言うほどのものじゃない。保護区域だって王国内の領地に過ぎないし、景色が違って見えるのは生息している動植物がハイマートと異なるからだ」
エルゼの呟きにグイードが眼鏡を押し上げた。確かに保護区域だって王国内であり、異世界に来たわけではないのだ。移動装置で一体、王国のどこへ飛んだのか少女にはわからなかったが、おそらくハイマートから遠く離れた場所なのだろう。
「ちなみに、今の移動で一日経ってる」
グイードの言葉の意味が理解できなくてエルゼが小首を傾げると、ヴィタが補足をした。
「要するに、今はハイマートを出て六日目なんだ」
「……へ?」
「移動装置といっても絵本の魔術みたいに、瞬間移動できるわけじゃないんだ。それでも迅馬より速いけど」
ヴィタの説明に、彼女は難しい顔をして考え込んだ。景色に違和感を覚えた要因は、単に視界の急激な変化だけではなく、時間まで経過しているということか。
「……なんか一日、損した気分になる」
「それはわかる」
ふくれ面のエルゼに、彼は共感の笑みを零した。同じ一日でも、馬車の移動と装置の移動とでは時間の感じ方が違う。
「もう一度、この移動があるんだけどね」
「そうなの?」
少しの嫌悪感が漂う表情に、ヴィタは北西の山を指差す。彼女もその指の先に視線を向けた。灰色の山の中腹、切り立った崖の上に、細長い木のような建物が建っている。少女たちの場所からでは、細部はわからない。額に手をかざして凝視したエルゼは、すぐに青年の言わんとしていることがわかった。
「あそこがヴィタの家?」
「俺の、というより、ノクス族の。今は親父と二人住まい」
遠くからでも、かなり大きな建物だということがわかる。おそらくハイマートの屋敷よりずっと大きいだろう、と彼女は目算した。
「保護区域に指定された地域に、元々ノクス族の城があったんだ。今よりずっと一族の人数が多かった時のだから、あれだけ大きいんだ」
北西の山を見ているヴィタとエルゼに、グイードが後ろから咳払いをする。二人が振り返ると、彼は北の森を親指で指した。石畳で舗装はされていないが、土が踏み固められた細い道が続いている。
「次の移動装置に向かう。グズグズしていると日暮れまでに着けないからな」
はあいと子どものような返事をするエルゼたちをグイードが率い、森を目指して歩き始めた。