第二章

01

 馬車の窓から見える景色は、ハイマートのものと違っていた。平原をしばらく走ると、今度は森が続き、欝蒼と茂る変わり映えのない緑に、少しの退屈を覚える。
 こうして何日も馬車で移動するのはいつ以来だろう、とエルゼは考えた。父に連れられて貴族同士のパーティーに出席したこともあったが、その時のことはよく思い出せない。うわべの会話も、その相手も、紅茶に砂糖が溶けてしまうように、ひとかけらも残っていないのだ。ドレスや首飾りや髪型や顔や、とにかく自分を賛美する言葉を吐いた、どこかの同じような伯爵令嬢を、貴族の若い子息を、彼らの顔を声を服装を、エルゼは憶えていない。父に言ったら、きっと怒られるだろう。社交の場では記憶力もそれなりに重要だ。
 あの時もこうして暗い森の中を馬車で走って行ったのかと、生い茂る木々をぼんやり眺めていると、窓のカーテンがサッと閉まった。
「もうすぐ保護区域の入口だ」
 斜め前に座るグイードが、両側のカーテンを閉め、天井の灯石で明かりを灯した。
「なんだ? ハイマートが恋しいのか?」
「……別に、そういうわけじゃないけど」
 ハイマートから馬車を走らせて五日になる。窓の外を見ていたエルゼが郷愁に駆られていると思ったのだろう。そう言ったグイードに、彼女は言葉を濁した。
「すぐに帰れるよ。三日なんてあっという間だし」
 向かいに座ったヴィタが優しく微笑んだ。グイードと同じく、彼もエルゼが故郷に思いを馳せていると感じたようだ。
「あの、ヴィタの家に行くのが嫌とか、ハイマートに早く帰りたいとか、そういうことじゃないからっ」
 慌てて言葉を重ねる少女に、グイードは小さく鼻で笑った。
「気をつけろよ、ヴィタ。今は大人しいが、ハイマートの女は凶暴だぞ」
 見ただろうお前も、と彼は嫌みたらしく片眉を上げる。その様子に彼女はむっと顔をしかめた。
「ターニャを悪く言わないで。第一、ギドさんだって相当、口悪かったじゃない」
 エルゼは小さい頃からずっと一緒だった親友の姿を思い出し、眼鏡の男に反論した。

 あの後、ほとりの小屋から戻ってきたエルゼとヴィタが目にしたのは、屋敷の前で口汚く言い争うターニャとグイードの姿だった。
「誰よっ、エルゼをあんなに落ち込ませて! 誰だろうが一発殴らないと気が済まないわよ!」
「農民の娘がいちいち出しゃばってくるな、汚らわしいっ」
「はあ!? エルゼはあたしの友達だもん、農民とか貴族とか関係ないんだから! なによ、あんたがエルゼを泣かせたのね、左と右どっちがいい? ちなみにあたしは右利きっ」
「おっまえ、目が悪いみたいだから言っておくが、王家の紋章に刃向うのか? ああ、農民は王家の紋もわからねえのか!」
「バッカじゃないの! そういうの関係ないっつってんじゃんっ! ちょっと顔いいからって調子のってんじゃねえよ、変なメガネかけちゃってさ!!」
「お、まっ! 最先端のモデルもわかんねえ田舎女のくせに!」
「じゃあ王都の奴らなんて普通の感覚もないんだわね!」
 もはや、フォイルナー伯であるマルクも、グイードの上司であるノルベルトも、今にも掴みかかりそうな二人をどうやって止めればいいのかわからないでいる。マルクが「やめなさい、ターニャ」となるべく二人を刺激しないように諌めるが、ターニャの勢いは止まらなかった。
 屋敷に近づくにつれ、その様子が克明にわかってくると、エルゼは嬉しさとともに、どうしたものかと頭を抱えたくなった。周りが見えなくなったターニャは危険だ。いつもならなんとか体面を取り繕えるものの、あそこまで激昂していては難しい。
「あの二人、絵のモデル?」
 噛みつかんばかりの勢いのターニャと、それをにこやかに傍観するクリストフを見て、ヴィタが隣の少女に訊ねる。こんな時まで、周囲とテンポがずれている。
「…………うん。普段は、もっと、違うんだけど」
 精一杯のフォローをして、エルゼは考え込んだ。先程から聞こえてくる言葉の通りだと、ターニャが落ち込んだ自分を見て怒鳴りこんできたのは明らかだ。ならば自分が止めるのが一番だろう、と少女は当然の道筋を辿った。
 ふと隣の青年を見上げる。どっぷりと辺りは闇に覆われているが、その中でもわかる美麗な横顔。これだ、と彼女は閃いた。
「た、ただいまー」
 なるべく両者の神経を逆撫でしないように穏やかな声を発しながら、屋敷の入口へとエルゼたちが姿を現す。一人傍観していたクリストフだけがいつもの調子で、
「あ、エルゼ、おかえりー」
 と、のんびり返した。その声に反応して、ターニャが勢いよく振り返る。エルゼの姿を確認すると、見る見る顔が歪むのがわかった。
「た、ただいま、ターニャ」
「エ、エルゼ、大丈夫!? なんか、この変なメガネに言われた!? ごめんね、あ、あたし、いつもと違うことに浮かれて、エルゼのこと、ちゃんと……」
 走って親友に近づくと、ターニャは今までの凶暴さがどこへ行ったのかというほど、しおらしくなった。自分のスカートをぎゅっと掴み、唇を噛む。
「い、いいのいいの! だって、私のために怒ってくれたんでしょう? それで充分」
 彼女を慰めるための言葉だが、それはエルゼの本心でもあった。きっと普段なら恥ずかしくて言えない感謝の気持ちも、この機会に伝わればいいのにと、なるべく丁寧に言葉を紡ぐ。
「あのね、ほら。この人、今日話してた、ヴィタ。ターニャから見て、どう?」
 なんだろうこの説明、恋人を紹介する時みたい、とエルゼは内心で赤面する。しかし、隣のヴィタを見たターニャの顔が瞬時に真っ赤になり、目が輝いたのがわかった。彼女の怒りを掻き消すことに成功したのだ。
「こんばんは」
 自分が紹介されて、ヴィタはいつもの優雅な微笑をターニャに向ける。彼女の両肩が驚いた時のように跳ねた。
「こ、こ、こんばんはっ。ちょっとエルゼっ、すごいよ、すんごくかっこいいー! いいなあー!!」
 黄色い声をあげるターニャに、中身は世間知らずだけどね、とエルゼは心中で呟いた。
 すっかり機嫌が良くなった相手に、グイードは眼鏡を持ち上げ、溜息を吐く。
「ったく、『あべこべ村』とはよく言ったもんだ」
 領主と農民、男と女、支配と隷属の関係は、この郷と他の地域――とりわけ王都は違う。農民の少女が王家の紋章を掲げる男に喧嘩を売るなど、あってはならないことだ。あべこべ村、逆さま郷、ハイマートは様々な呼び名で都市の貴族から呼ばれる。
ギド、言葉遣い」
「わかっている」
 ノルベルトに指摘され、グイードはもう一度、溜息を吐いた。
 亜種の青年をきゃあきゃあ言いながら観察しているターニャに、彼は心底疲れ果て、眉間を揉みほぐした。ノルベルトも村娘の奔放な反応に、苦笑いしている。
「……あのまま寝取りそうな勢いだな、あいつ」
「そんなことしたら、あの子、死んじゃうけどね。ギド」
「……わかっている」
 再び口調が荒くなってきた部下に、ノルベルトは同じ調子で釘を刺した。
「すみません、王都の方々」
 先程の険悪な雰囲気を全く引きずっていない間延びした声に二人が振り向くと、修道士姿のクリストフが立っていた。
「どうか、農民の娘の粗暴な言葉をお許しください。彼女も貴き方を慕ってのこと。普段は敬虔に聖アネルを信仰している、大地の子の一人です」
 静かにターニャを弁護する彼は礼儀正しく、ノルベルトもグイードも無下に非難することができない。
「御心深きお二方が、聖アネルに免じてお許しくださることを信じています」
 膝を折って祈る仕草をするクリストフに、二人は苦い顔をして頷いた。ここで意固地になって教会を敵に回しても、面倒事になりそうだ。
「ありがとうございます。
 さて、お二方が誠にお許しになった証として、ただいまハイマート滞在中のドリーセン司祭の説教を、特別価格でご提案――
「はあ!?」
 話の流れで『商談』に入った修道士に、グイードが眉をつり上げて喚いた。一方、赤毛の男はかろうじて動揺を見せず、苦しい愛想笑いをした。
「何か?」
「あ、いや……。では明日、教会に伺います」
 納得のいかない部下を押しのけて、ノルベルトは穏便に事を済ませようとする。
「お二人で五十ミュンツェになります、ありがとうございます。では、また明日」
 商談が成立すると、クリストフはさっさとエルゼたちの元へ行ってしまった。後にはますます不機嫌になったグイードと、苦笑いが顔に張りついたノルベルトが残る。
「……共存派のお偉いさんの説教聞いてていいのか?」
 ノルベルトの父であるステンデル侯爵が征服派であることは、貴族の情勢を少しでも知っている者にとって、周知の事実だ。
「親は関係ないさ」
 赤毛の男の顔が自嘲気味に歪んだ。さらりと述べられたはずなのに、グイードの耳に残るその声は、ひどく不安定だった。
「それに、ああ言わなければ、また何を言われていたのやら」
「……俺は払わないからな」
 村娘と修道士の勢いに激しく気力を消耗し、大のおとなが二人、そろって溜息を吐いた。