第一章

06

 空の広いハイマートの夕焼けは美しい。西の茜色と天から迫る闇のグラデーションを見ていると、一日の終わりを感じることができる。いつもは村から屋敷への帰路で見るその赤を、今日は反対方向に歩きながらエルゼは眺めた。深呼吸をして、気持ちを落ち着かせようと努力する。それでも肩に入った力は抜けなかった。体の力を抜いて俯いたら、そのまま動けなくなってしまう。
 右手に鍵を握りしめたまま、エルゼは走るような速度で歩いていた。しばらく舗装された通りを行き、教会の手前にある細くて土を踏み固めただけの道へ入ると、池のほとりへ出る。
 前方に見えてきた教会の入口で、ターニャとクリストフが立ち話をしている。おおよそターニャの愚痴か、クリストフの説教の練習か。エルゼは二人の親友に泣きつきたい思いに駆られたが、彼らに今の感情をぶつけることが躊躇われた。きっと自分本位の醜い言葉ばかりが口をついて出て、二人に迷惑をかけるのではないか。
「エルゼー」
 そうしている間に、目のいいターニャが彼女を見つけ、大きく手を振ってきた。池への入口で立ち止まったエルゼに、二人が近づいてくる。
「どうだった? やっぱ昨日の人だった?」
 夕闇で細かい表情がわからないのか、ターニャは親友の様子に気付いていないようだ。
「聞いたよ〜、エルゼ」
「あ、クリストフに話しちゃった。まあいいよね」
 昨晩の出来事をターニャ伝いに聞いたのだろう。同情とも好奇ともとれぬ微笑みを浮かべる青年に、エルゼは父の言葉を思い出した。
「クリストフ。私が死んでも、善行で楽園に行けると思う?」
 何と答えてほしいのだろう。求めているのは共感か安堵か。ただこれを糸口にして吐き出したいだけなのか。先程から自分が何をしたいのか、エルゼも理解できていなかった。
「うーん。とりあえず、葬式と墓地は安くしとくよ」
 最大で半額まで、とにこやかにセールストークを始めるクリストフに、彼女の睫毛は伏せられた。
「そう。……そっか」
 そのまま片手で別れの挨拶をし、エルゼは池へと向かって歩き出す。彼女の背後でターニャがクリストフの背中を思い切り蹴る音と、彼の「痛っ!」という声が聞こえた。
 左手に教会の聖職者たちが育てている畑を眺めながら、先程より鈍い速度で前へ進む。時間が経つたびにどっと疲れが出てきて、手足が鉛のように重い。
 屋敷の裏から池のほとり半分を覆うように存在する森林が、黄昏の中で影となってそびえた。ふと昨晩のことを思い出す。ヴィタを夜の森に住む悪霊かと恐ろしく思ったことだ。悪魔でも悪霊でも、今だったら恐ろしくなどない。この状況を打開してくれるのなら、魅入られて狂ってしまってもいいとさえ思える。
 家の外聞も体面も気にしないのであれば、この話を断ればいいとグイードという男は言った。代わりの候補者がいることも。それなりの代償とともに、命が惜しいと乞えばいい。だが、それは他の誰かを差し出すことだ。どんなに不条理な現状を嘆こうと、エルゼにはそれをする勇敢さも非情さもなかった。
 池は村の大切な水源だ。川へと流れ出るところには水車小屋が建てられ、水車番が小麦を挽く。少し離れた場所にある小屋を遠目に見るが、明かりはついていなかった。
 森林がちょうど対岸に見える位置にもう一つ、小さな木造の小屋が建っている。エルゼは鍵を握って、そこへ歩いていた。そこが彼女の、大切な場所だ。
 完全に夜になると、鍵穴もよく見えなくなってしまう。まだ手元が見えるうちに、さっさと小屋へ入ろう。帰りは中に置いてあるランプを持って行けばいい。
 簡素な扉の穴に鍵を差し込んだ瞬間、森からガサリッと何かが動く音が聞こえた。突然の物音に、エルゼの肩が跳ねる。反射的にそちらを向くが、暗くてよく見えない。
 こんなに闇が濃くなかったら、小動物だと思って特に気にしなかっただろう。だが音の大きさから言って、ウサギやキツネとは考えられない。
 目を離すのは怖いが、助けを求めるようにもう一度、水車小屋を見た。明かりは依然、消えたままだ。誰もいないんだ、と認識すると、一気に恐怖が心を侵食する。水車番は賤しい身分の者だから、話してはならないと小さい頃から言われてきた。だが、その水車番さえいないということは、とてつもない孤独と不安を掻き立てる。
「…………誰?」
 人間である確証はなかったが、訊ねてみる。動物だったら、小屋の中に入ってしまえばいいが、もし悪意のある人間や悪魔だったら、それはあまり効力がないかもしれない。悪魔でも悪霊でもいいと思っていたが、突然来られても困るというものだ。もっとちゃんと、ヴィタみたいに段階を踏んで説明してもらわないと。
 暗い森を、目を凝らして見ていると突然、エルゼの体が宙に浮いた。何が起きているのかわからないまま、背中に衝撃が走る。ぐわんと頭の中が鳴り、草と土のにおいがする。一瞬遅れてようやく、地面に倒されたのだと気付いた。
 悲鳴を上げるよりも先に、立ち上がって小屋の中に逃げ込もうとエルゼは判断した。身一つでは撃退することもできないし、ここで悲鳴を上げても一番近くにある教会まで届くかわからない。
 地面に手をついて急いで立ち上がろうとした彼女の目の前に、大きな手がぬっと出現した。喉の奥で引き攣った悲鳴が上がる。逃れようと意識はしているのに、体が恐怖で硬直した。瞼を閉じて、世界を遮断することすらできない。
 その手に視界が奪われる。真っ暗闇。そのまま頭が地面に押しつけられ、首の襟にもう片方の手がかかった。エルゼの身の毛がよだつ。悲鳴、抵抗、何かしなければ――
 次の瞬間、強い衝撃音がして、目を覆っていた手が、襟にかかっていた手が、それがついている体もろとも吹き飛んだようだった。地面を滑る派手な音が聞こえた。暗くて、何が起こっているのかわからない。しかし、視力が届く範囲に襲ってきた誰かはいない。そのまま誰かが走っていく音と、誰かが駆け寄ってくる音。
「エルゼっ!」
 夕闇の中で間近に見えたのは、ヴィタの顔だった。近くに膝をついて目線を合わせ、抱き起こす。
「大丈夫? 怪我は!?」
 心配そうに向けられた紫紺の瞳に、エルゼは小さくコクコクと頷いた。安全を確認するようにヴィタの手が、顔や手に触れる。頭はまだ鳴っているが、どこにも痛みはない。
「だ、だいじょうぶ」
 安堵の溜息を吐いたヴィタが、彼女の手を取ってゆっくりと立ち上がった。それに引っ張られてエルゼも立ち上がる。一通り、乱れた髪や服の汚れを直すと、一足遅れて少女にも安心感がわき上がってきた。
「…………あ、あの」
 いくらここへ来る原因になった人物だからといって、礼の一つも言わないのは無礼なことだ。そう思って、エルゼは彼の顔を見上げた。
「ありがとう」
 暗くて笑顔で言ったとしても伝わらないだろうと、いつもより声を張る。そうした後で、間近に立っているのだからそうする必要はなかったかもしれない、と彼女は恥ずかしさを覚えた。
 暗闇の中で、ヴィタが小さく笑ったのが見えた。
「どういたしまして。と言うより、エルゼを怒らせちゃったのは、俺のせいでもあるから」
 悲しそうにヴィタの眉尻が下がる。そう言われて、少女はようやく恐怖の前に心を支配していた憤怒と苛立ちを思い出した。
「……まあ、確かに貴方に会ってからロクなことないけど。友達には相手にされないし、両親は乗り気だし、おまけに初恋の人まで……」
 自分で挙げた事柄に改めて落ち込んで、エルゼは肩を落とした。そうだ、本当にいいことがない。美味しくて大好きなハンナのクッキーの味も、『マドレーヌ』という言葉に掻き消されてしまう。
「エルゼはノルブと結婚したかったの?」
 応接間であれだけ間抜けに見えたヴィタも、ノルベルトとの再会を喜ぶ彼女を憶えていたようだ。初恋の人が赤毛の男の方だと、しっかりわかっていた。
 彼の愛称を出され、エルゼは首を横に振った。
「違う、あの人は初恋ってだけ。昔はあの人に会いに王都に行きたかったけど、今は違うの」
 思い出して小屋の扉を見ると、鍵は鍵穴に刺さったままだった。どこかへ飛んでいってなくてよかった、とエルゼは安堵する。この闇の中で探し出すことは不可能だろう。
「あのね、私、夢があるの」
 鍵を回すと、カチャリと音がする。
 突然、彼女から飛び出した単語に、ヴィタは紫紺の双眸を瞬かせた。
「…………夢」
「たぶん今、一番大切な夢。
 もしこのまま、この話が進んだら、死ぬのも怖いけど、それ以上に、その夢を永遠に叶えられないことが悔しいの」
 取っ手を引いて、扉を開ける。夜の冷たく湿った風に乗って、油のにおいが鼻をついた。
 エルゼは小屋の中へと足を踏み入れ、小さなテーブルの上に乗ったランプを探した。ヴィタもそれに続いて入るが、暗くて狭い室内はよく見えない。
 少女がランプの中の光油に灯石を入れると、小屋の隅々まで照らし出す光が生まれる。
 ヴィタはそこに映し出された光景に、目を奪われた。
「これ…………エルゼが、全部……?」
 狭い部屋の中には、大小様々なキャンバスが立て掛けられていた。それら全てに色彩鮮やかな油絵が描かれている。大きく切り取られた窓の下にも、テーブルの横にも、多いところには四、五枚のキャンバスが重ねて置かれていた。
 部屋の中央にはイーゼルと小さな丸椅子が、その下には油絵の具とパレットが乱雑に転がり、使い込まれたペインティングナイフと筆が手入れされて置かれていた。
 驚いて辺りを見回すヴィタに、小屋の主が頷いて窓の外を見た。今は真っ暗で、ガラスに室内が反射している。
「その窓から見える景色とかね。友達にモデルになってもらったりもするけど」
「すごい……。全部見ていい?」
 あの『マドレーヌ』の時と同じキラキラと輝く瞳に、エルゼは快く了承する。
 一番手近に置かれていたキャンバスには、牧草地で草を食む牛たちが描かれていた。数年前のもので、今見るとあまり上手じゃない、と彼女は内心で苦笑した。
「なるほど、これが羊かあ……。思ったより大きいね。もっと白いと思ってた」
「うん、違うから。それ、牛だから」
 的外れな感嘆の声を、少女は冷静に訂正した。青年はさらに驚いて、牛かあ、とまじまじとキャンバスを凝視した。少しだけ、自信を失くす。数年前のだしね、とエルゼは内心で自分をフォローした。
 大きなキャンバスには、ハイマートの四季をたくさん描いた。夏の日差しに青々とした草原、秋の落ち葉が寂しい森、冬の雪深い遠くの山々、春には平原にも畑にも花が咲く。毎年、描いている。今年も、去年も、ずっと故郷の四季を追ってきた。
「これ、『雪』っていうんだろう? 冷たくて寒そうだ」
 一面銀世界と化した冬の絵を見つけて、ヴィタが笑った。雪を知らないノクス族の青年にも、冬の肌に突き刺さる寒さが伝わったのだと思うと、エルゼも嬉しくなる。
 あれだけ不条理な未来に怒っていたのに、その中心にいるヴィタに苛立っていたのに、この喜びはなんだろう。大切なものを褒められて、素直に嬉しい。なんて現金なんだろう、とエルゼは自分でも笑ってしまう。
「この人たちは?」
 ヴィタが小さなキャンバスを掲げて、その中の人物を訊ねた。
「それは私の友達のターニャとクリストフ。同じ年頃なんだけど、小さい頃を思い出して描いたの」
 畑が実った麦で覆われた時のハイマートの絵だ。麦畑の中を、幼いターニャとクリストフが駆けている。背が小さいからまるで、かくれんぼをしているようだ。風が揺らす穂の音や、麦の香りが流れてきそうな一枚だった。
「で、これが私」
 麦の穂にほとんど隠れるようにして見える金髪の頭を、エルゼが指差した。ヴィタが顔を近づけて、まじまじと見つめる。
「……わからなかった」
「見つけた人は目がいい人。ターニャに見せた時は、すぐに気付いてくれたわ」
 バツが悪そうな青年に、エルゼは声を立てて笑った。
 ヴィタが彼女の快活な笑みを見たのは初めてだった。応接間で見たノルベルトへの微笑も、今の表情に比べるとずっと大人しくて、よそ向きに見える。
「絵を描くのが、エルゼの夢?」
「……そう、そうね。最終的には、王都にアトリエを持ちたいの。たくさんの人に自分の絵を見てもらいたい。……もちろんハイマートでの暮らしも好きだけど。
 いろんなところに行って、たくさん絵を描いて、それを気に入ってくれる人がいて、そうして生活できたら最高だわ」
 夢を語るエルゼの目は、明るい光を宿している。屋敷で見せた怒りなど微塵も感じられない。そうか、と彼は納得した。こんなに大切な夢があるから、『あの時』彼女は嵐のような感情を瞳の奥に湛えたのだと。結局、それは表に出てくることなく、グイードの言葉によって押し留められたが。
――すごいな」
 それは彼の心の奥底からわき上がる、素直で飾り気のない感情だった。
「すごいよ、エルゼにはこんな素敵な夢があるんだね」
 宝物を見つけた少年のように、ヴィタの声は躍っていた。無表情だと生気のない人形のような顔が、今は楽しくて仕方ない子どものように輝いている。
 直球で投げかけられた言葉にエルゼは赤い顔をして、たじろいだ。
「あ、……ありがとう」
 まさか、応接間であんなに世間知らずに見えた青年に、こんな言葉をもらえるとエルゼは思っていなかった。いや、世間知らずだからこそ、自然に口から零れるのだろうか。用意されて飾りつけられたセリフでは、こんなに心から嬉しいと思うこともないのではないか。