ハンナが深く頭を下げ、中に紅茶と茶請けを乗せたワゴンを運ぶ。
エルゼは応接間にいる人物に、少なからず困惑していた。自分の予想と若干、違っていたからだ。
草原を思わせる深い緑を基調とした応接間には、五人の人物が座っていた。
一人はマルク・フォイルナー伯爵。丸い顔と丸い鼻、小さい背の、エルゼの父親だ。隣に母親のアンネリース。父とは対照的に、細いシルエットの穏やかな夫人。
向かいの席に三人座っている。一人は昨夜会ったヴィタだった。ノクス族の衣装なのだろう、昨日と同じような暗い色の長衣を着ている。
残りの二人は、全く予想だにしていない人物だった。濃紺の上等な制服を着ている。貴族服や騎士たちの着る軍服とも、どこか違ったツーピースの衣装だ。二人とも二十半ばから三十代ほどの若い男だった。一人は焦げ茶色の髪のツリ目。眼鏡が見たことのない細長い形をしている。もう一人は赤毛の品の良い美男子だった。
エルゼはそこまで目で追って、確信を持てないまま動揺した。しかしそれよりも早く、体が反射的にスカートを持ち上げ挨拶をしている。
「遅れて申し訳ありません。フォイルナー家長女のエルゼ・フォイルナーです」
混乱した頭でも、唇は淀みなくお決まりのセリフを述べている。それでも神経が行き届かなくて、愛想笑いの一つもすることを忘れていた。
座ったままの父親が、わずかに息を漏らした気がした。
「エルゼ、お客様に対して、その顔は失礼だ」
無愛想な娘に映っただろうと、マルクは気が気でない。
「いいですよ、伯爵。我々の突然の訪問に、お嬢さんも驚いておいでだ」
何とか笑い顔を作ろうと試みるエルゼに、赤毛の男は優しく微笑んだ。それにつられて、ようやく少女の顔にも笑みが浮かぶ。
父親に手招きされて来訪者の三人に向かい合う形になると、マルクは立ち上がり一人ずつを手で示して娘に紹介した。
「こちらは、ルカ、ルケ……ん?」
同じく起立したヴィタを手で示したマルクは、慣れない響きの名前が思い出せないでいる。
「ルケスキート・ヴィタ・ノクスです」
「そう、ルケスキート……………さん、だ」
ごまかした父の揚げ足を取ることはせず、エルゼは差し出された彼の手を握った。相変わらず作り物のような手をしている。
「どうも」
「エルゼ!」
ぶっきらぼうな答え方をした娘に、父の血圧が急上昇する。その様子に、赤毛の男はわずかに声を上げて笑った。
「そう怒らないでください。彼はエルゼさんと面識がありまして」
「はい、昨晩お部屋に伺いました」
大真面目に言ったヴィタに、父のみならず母親のアンネリースも言葉を失う。娘が親の知らぬ間に夜、若い男を部屋に入れるなどフォイルナー家では今までなかったことだ。親が知らないだけで今まであったことかもしれないが、しかしうちの娘が……、とマルクもアンネリースも瞬きを繰り返しながら若い二人の顔を見る。
「…………ええと、どういう意味と、受け取っていいのか」
「母様っ! 母様が今、想像したようなはしたないことは一切っ! ありませんからっ」
「エルゼっ! 母様が何を思ったのかも知らないのに、はしたないと言うのはやめてっ」
細い顔に手を当てて困惑している母に、エルゼは勢いよく弁明する。それに呼応するようにアンネリースも大きな声で応戦した。父であり夫でもあるマルクが、二人を収めようとする様子を、三人三様の――目を瞬かせたり、呆れたり、笑ったりといった――反応で見ている。
「失礼。本人の言葉が足りないので補足します。ルケスキートくんは昨晩、我々が正式に訪問する前にエルゼさんにお会いました。無許可で、彼女の部屋に飛んで行って。ですが、それはただの自己紹介であって、婚前交渉はなかったと聞いています」
それまで黙っていた眼鏡の男が、滔々(とうとう)とヴィタを弁護した。事務的な言い方で説明しているように見えて、その実、両親の神経を逆撫でしているように、エルゼには聞こえた。言葉を選んでいるのはわかるが、それが却って生々しい。
「だ、だからっ、要するにっ、顔合わせだけですから!」
ね!と、同意を求めてヴィタに視線を向けると、はい、と彼はその場の雰囲気にそぐわぬ優雅さで首肯した。
身を乗り出していた母親が、ゆっくりとソファーの背もたれに身を預ける。
コホン、と伯爵のした咳払いが、この話題を終える合図となった。気を取り直して父のフォイルナー伯は、娘に次の人物を紹介する。
「こちらは、王都からいらしたグイード・アドラーさん」
先程の眼鏡の男が立ち上がる。エルゼも小さく深呼吸をし、彼の方へ体ごと向いた。冷静な目に細長い眼鏡も相まって、鋭い印象を受ける。
「王立大学所属絶滅亜種保存委員会・ノクス族担当の、グイード・アドラーです」
抑揚のない声で肩書きと名前を述べると、白い手袋をした手が差し出された。エルゼは長い肩書きをしっかりと聞き取れなかったが、後で質問すればいいと笑顔で握手をした。
マルクの手が、次の赤毛の男へ向けられる。
「最後に、同じく王都からいらしたノルベルト・ステンデルさん」
赤毛の男が立ち上がり、エルゼとしっかり目を合わせる。その琥珀色の瞳を見た時、彼女の中の曖昧なものが確信へと変わった。
「外交主任のノルベルト・ステンデルです」
手のひらを上にして差し出された彼の手に少女が手を乗せると、貴族風の挨拶をするように男は手を持ち上げて頭を下げた。
「憶えているかな。君が小さかった頃、王都で少しだけ会ったことがあるんだけど」
少しの不安を含んだノルベルトの声に、エルゼの頬が薔薇色に染まった。
「憶えてます! あの時はお世話になりました」
もう十年も昔のことなのに、相手の青年も自分を忘れていなかった。そのことがエルゼは嬉しくて、顔が華やぐ。幼い自分の記憶では子どもと大人の中間にいた彼は、今やすっかり風格漂う大人の男性になっている。
ノルベルトも彼女の返答に口元を綻ばせ、ゆっくりと手を離して席に着いた。
その頃には、ハンナは全員分の紅茶と茶請けを配り終え、話の腰を折らぬよう静かに応接間を後にしていた。
アンネリースに勧められてエルゼは両親の間に腰を下ろした。
「さて、お二人には大体のことはお話しましたが、エルゼさんもいらしたしもう一度、かいつまんでご説明しましょう」
三人を見つめるノルベルトの顔は、十年前の少女の知らない顔になっていた。彼の言葉にエルゼは構えるように座り直した。
「我々の絶滅亜種保存委員会はその名の通り、絶滅に瀕した亜種の生態を保護し、種を保存することを目的とした団体です。亜種を研究している学者が中心ですので王立大学所属ということになっていますが、彼らの統治も目的に含まれているので、全権は国王陛下に帰属します」
だから隻腕獅子の紋章がついた馬車だったのか、とエルゼは一人で納得した。いくら王立といえど、大学所属の団体が王家の紋を掲げることが不思議だったからだ。
それと同時に、この訪問とヴィタの件は言うなれば国王の命であり、田舎貴族のフォイルナー家に決定権など無いに等しいということを、彼女は理解した。が、納得や了承の気持ちがそれにつき従うかは、別の話である。
「今回は、その絶滅に瀕する亜種の中でも、ノクス族のルケスキートくんの件でこちらに伺いました」
自分の名前が出てきたことに、それまで茶請けの焼き菓子を見ていたヴィタが顔を上げた。
「あ、あらあら。失礼しました。どうぞお茶とお菓子を召し上がってくださいな」
それを催促と勘違いしたアンネリースが、慌てて三人にそれらを勧める。話を中断することを特に不快と思わず、ノルベルトたちは礼を言ってカップに口をつけた。
ヴィタも、ありがとうございます、と涼やかに答えたが、焼き菓子をじっと見たまま手をつける気配がない。
光のもとにいる亜種の青年は、エルゼにはひどく異質に見えた。ハイマートには彼のような漆黒が存在しない。屋敷の裏に存在する森の暗い色や、夕闇の池のほとりとも違う。夜空の黒が一番近いかもしれないが、完全に同じではない。
「ルケスキートくんはあとひと月ほどで十八になります。その頃までに是非、フォイルナー家のエルゼさんを花嫁としてノクス族にいただきたいのです」
あくまでにこやかに話すノルベルトに、エルゼの胸がちくりと痛む。できれば彼の口からそういうセリフは聞きたくなかった。行儀よく膝の上に置いた手に、知らず力がこもる。何かにしがみつくように。
「ああ、そうか」
その時ようやく、焼き菓子を見ていたヴィタが声を上げた。細長い指が優雅に焼き菓子を取る。小麦粉や砂糖を使って作る、ハイマートの伝統的なクッキーだ。婦人が口に運びやすいよう小さく作るものだが、ハンナは少し大きめに作る。見ても楽しいよう、花や葉の形に似せて焼くのだ。今回も、葉の形にしてある。
「これがマドレーヌというものか」
バカ真面目に頷いたヴィタに、フォイルナー家のみならず同伴者の二人も押し黙った。紫水晶の瞳を幼子のように輝かせ、様々な角度から焼き菓子を観察している。
「…………………………マドレーヌじゃなくて、クッキーよ」
「クッキー!? でもクッキーはもっと小さくて円なんじゃ……」
「ハンナのクッキーはこういう風に大きくて、葉っぱの形なのよ! 貝じゃないわよ、葉っぱよ!!」
沈黙に耐えきれなくて訂正したエルゼに、青年がさらに驚く。感嘆の声を上げながら再び、今度はクッキーとして観察を始めた。
「まあ、生まれた時から我々に保護されていますし、人間社会とは多少異なりますから、世間知らずの面も少々ありますが、いい青年ですよ。エルゼさんとも相性ばっちりじゃないですか」
ノルベルトのフォローに伯爵夫妻も、そうですねえ、と言葉を濁して微笑む。
もし。もし、本当にこの縁談――というより、『保護活動の一環の番(つがい)探し』――が成立した時、本当にこの、マドレーヌとクッキーの違いもわからぬ男と結婚するのか、とエルゼは内心で苦虫を噛み潰した。
「もちろん、フォイルナー家にはそれなりの褒賞を与える予定だと、国王陛下は仰っています」
『褒賞』という単語が出ても、マルクとアンネリースは渋い顔のままだ。それがエルゼは娘として嬉しかった。
芳しくない表情の夫妻に、グイードとノルベルトが顔を見合わせる。
「伯爵、確かに亜種の青年に大事なお嬢さんを差し出すのは、とても勇気のいることです。しかし、考えてみてください。ノクス族は絶滅に瀕した、いわばこの世から消えゆこうとしている命そのものである、と」
赤毛の男の言葉に、マルクは目を細めた。眉間に寄った皺はまだ深いが、先程までとは聞く姿勢が違ってきている。そのわずかな変化を、娘は見逃さなかった。
穏やかに諭すノルベルトの声が、エルゼの鼓動を速くした。膝の上で重ねた両手に、じんわりと汗が滲む。あんなに優しい声音なのに、こんなに心臓に鋭く突き刺さるのは何故だろう。
「なにも亜種の存続というだけの話ではありません。王立大学の学者の中では、より多くの種を生かすことが、人間世界を豊かにするという考えが主流です。亜種を生かすことで人間も生かされ、そしてより繁栄する。共存派の伯爵は、そのことをよく理解しておいでだ」
ノルベルトたちは、フォイルナー伯であるマルクが共存派であることを、当然のごとく知っている。それだけではなく、エルゼの父が慈善家でありそれらの活動に目がないことを、熟知しているようだ。
「要するにこれは亜種、人間かかわらず、世界のためであると言っても過言ではない」
エルゼは、あまりに大げさな物言いに眉をしかめた。だが、彼女の両親はそうでもなかったようだ。ちらりと二人を盗み見た娘は、彼らが真剣な目でその言葉に耳を傾けている様子を感じた。そして、改めて思った。両親は人助け大好きな、慈善活動家であると。
「…………そう。そう、そうですね……」
先程のノルベルトの言葉を噛みしめるように、マルクは何度も頷いた。隣で同じ仕草をしているアンネリースは、エルゼを見て目を伏せる。まるで今にも、娘が死んでしまうような悲しみを湛えて。
「……ちょっ」
葬式の雰囲気になった応接間に、エルゼの声が響く。
「ちょっと、待ってよ。父様も、母様も……」
自分の言葉に、エルゼも何を待つのかわからない。そもそも、この『縁談』にフォイルナー家の拒否権はないのだ。隻腕獅子の紋章は選択の余地を与えず、これはただの形式だけの話し合いだと、先程の説明で理解していたはずだ。
なら、なぜ昨晩、ヴィタは自分に『頼んだ』のだろう。こんな唐突で無茶な要求を『命じる』なら、了承だって、心だっていらないのに。吐き気とも頭痛とも違う不思議な渦が、エルゼの中でぐるぐると回った。
「エルゼさんが本来だったら、よそへ嫁いだ際に生じるフォイルナー家の利得分も我々は支払うつもりです」
「そういう問題じゃないでしょう!?」
ひどく現実的な話を持ち出したグイードに、エルゼは相手が王都からの客人であることも忘れて叫んだ。
「私の、これからの人生は!? 自分で言うのもなんだけど、こんな年で子ども産んで死ねっていうのっ!?」
「エ、エルゼ。母様の従姉(いとこ)のグレーテさんは十六で子どもを産んだのよ? 今じゃあんなに恰幅良くなっちゃって、」
「それは普通の人間と結婚したからでしょう! 子ども産んでもお腹を食い破られることはないし、今だって元気でしょうよ」
宥めようとしたアンネリースにも、噛みつかんばかりの勢いで喚く。エルゼも自分の言動がこの家にどんな影響を与えるか、冷静な部分ではわかっていた。それでも感情が拒否をした。ここでは首を縦に振って、後で愚痴を零そう。そんなことも思えぬほどの衝動だ。
「エルゼ」
諭すというより、まるで咎めるような口調で父親が娘を呼んだ。
「ではお前は、このルカ、ルケ……」
「ルケスキート!」
「そう、ルケスキートくんの種族が、滅んでもいいというのかね?」
至極真っ当な意見にとっさの反論が思い浮かばず、エルゼは開いた口を噤んだ。
「一人のわがままで、世界のバランスが崩れてもいいと?」
否、と言外に匂わせ正論を吐く父に、娘は唇を噛む。感情に任せれば、当たり前よ、と切り捨ててしまいたい。だがそれが正しくないことも、エルゼは知っている。そう、正しくはない。
「もし、子を産むことによってエルゼが死んでも、神はその正しい行いを見ていてくださる。楽園に行けるというものだ」
そうよ、と隣で賛同する母親も含め両親に対して、また出た、と娘は辟易とした。二人が信じるものは、死後の救済だ。だから生前に善行を重ねる。そのための慈善活動というわけだ。結局、彼らが救うのは困っている人々ではなく、自分自身なのだ。エルゼはそこに面の裏の利己主義を見る気がして、両親に嫌悪感を抱く。善行は、善行だ。悪いことであるはずがない。だがその正しさに、エルゼはうんざりする。
「それに、いい機会じゃないか。ためにならない趣味などやめて、花嫁修業でも始めるか」
マルクが仲直りの印とでも言うように、朗らかに笑った。その言葉が娘の一番大切なものを傷つけたことを、父は知らなかった。エルゼの碧色の瞳の奥に嵐のような感情が宿ったことを、焼き菓子を齧っていたヴィタは見た気がした。
「エルゼさん」
ようやく列火のような激しい声が止んだと見計らい、グイードが冷静に彼女を見つめた。
「貴女がどうしてもと拒否をするなら、それも仕方ない。損害も外聞も気にならないなら、ご自由にどうぞ。我々も候補者を一人しかあげていないわけではないので。他の方に嫁いでいただくまでです」
突き放したように見えて、さらに退路を断つ言葉だった。威圧感のない機械的な声音なのに、地面から足首をぐっと掴まれたような気分になる。
エルゼが何かを言おうと口を動かす。だが、その唇から声が紡がれることはなく、わずかな吐息だけが漏れた。
「………………すみません。少し、頭を冷やしてきます。失礼させていただきます」
ようやく形だけの詫びを呟くと、彼女は足早に応接間を出て行った。扉の前でお辞儀をすることも、笑顔でいることもすっかり忘れて、そのまま走るように二階の角にある自分の部屋を目指す。激しい運動もしていないのに動悸がして、目の前がチカチカと眩しい。
勢いよく自室の扉を開くと、エルゼはまっすぐ机に向かった。この部屋で落ち着きを取り戻すつもりも、泣き崩れるつもりもない。一番上の引き出しを開けると、真っ先に目につくジュエリーケースを取り出す。大切なアクセサリーとともに、シンプルな形の鍵が入っていた。それを手にすると、ケースや引き出しも直さぬまま、エルゼは部屋を後にした。
「姉さま?」
自分の部屋から出たところで、階段を上ってくるユストゥスと出くわした。明らかに様子のおかしい姉に、心配そうに眉根を寄せて近づいてくる。
「あの…………、元気、出して、姉さま」
張りつめた空気をまとったエルゼに応接間の出来事を訊くこともできず――そしておそらく悪い方向へ事態はむかったと考え――、ユストゥスは自身で考えた精一杯の励ましを口にした。
「ボク、姉さまに元気になってほしいし、幸せになってほしい。家族、みんな……」
うまくまとまらない弟の必死な様子に、エルゼの心も和らぐ。だが、同時にユストゥスに対する羨望や嫉妬も顔を出す。きっと、この葛藤や怒りをこの子はわからないのだと、彼女は唇を真一文字に結んだ。
「ありがとう、ユス。ちょっと出てくる」
口角を持ち上げてかすかに微笑むと、少女は二階へ来た時と同じ速さで、階段を下りて行った。
「姉さま、もう日が暮れるよ?」
玄関の大扉を開いて、夕暮れのハイマートへ出て行ったエルゼに、ユストゥスは吹き抜けの二階から声をかけたが、それは届かずにかき消えた。