フォイルナー伯の屋敷は、ハイマート郷を一望できる丘の上に建っている。ハイマートに唯一と言っていい舗装された道が屋敷から、教会や家々の集まる村の中心へと伸びている。人々の家の周りには春と秋に種をまく畑、そして牧草地が広がっていた。屋敷の東にある池から村の裏を通るように川が流れ、その上流に水車小屋がある。
屋敷に戻る道を歩くエルゼの鼻腔を、パンの香りがくすぐった。屋敷の傍にあるパン焼き小屋で、誰かが夕飯用のパンを焼いているのだろう。
屋敷の前に、例の馬車が止まっていた。馬は『迅馬(エドレロス)』という俊足に改良された馬だ。黒塗りで、左右の扉と後ろに隻腕獅子の紋章が入っている。横目でそれを確認すると、少女は玄関の階段を上った。
フォイルナー伯の屋敷は、この村では一番上等な建物だ。田舎貴族の屋敷は、王宮や都市貴族のそれのような華やかさはない。それでも百年以上前に建てられたこの屋敷が、代々大切に使われてきたことが、随所から窺える。たとえばそれは、軒下の補強跡や、装飾の隅々まで丁寧に磨かれた大扉に。
玄関の大扉を静かに開くと吹き抜けの二階から、まだかろうじて高い声が響いた。
「姉さま、おかえりなさい」
エルゼが顔を上げると、三つ年下の弟が勢いよく階段を駆け下りてきた。そのまま少女の腕にしがみつく。
「ただいま、ユストゥス」
顔をほころばせると、ユストゥスは零れんばかりの笑みを浮かべた。もう背だって姉と変わらぬほどになったのに、仕草ばかりが幼い。同じ色の碧眼が笑うと、十四になるのに少女みたいだ。エルゼはユストゥスの穏やかな目が好きだった。彼女自身、父親似の勝ち気そうな目元があまり好きではなかったので、母親似の優しい目の弟に少しの憧れを持っていた。
「お客様が来てるの?」
視線を一階の応接間に向けると、隣で弟が頷いた。
「はい。王都からいらしたって言ってました。ボク、人間じゃない人、初めて見ました」
自分の両耳を引っ張って興奮気味に語るユストゥスの言葉に、エルゼはターニャの予想が当たったと内心うんざりした。『人間じゃない人』は、昨夜のヴィタで間違いないだろう。しかし亜種が王都に住んでいるとは、エルゼには初耳だった。
「……っと。ユス、『ボク』じゃなくて」
「……『私』。いいじゃない、姉さま。今は父さまがいないんだし」
耳ざとく注意した姉に、ユストゥスは苦笑した。ここ最近、父は息子の教育を徹底させていた。子どもから、社交界に出しても恥ずかしくない一人の少年へ育て上げようとしている。彼自身はまだ子どもでいたいようで、父親のいない時はそれらの作法も言葉遣いも、昔に戻ってしまう。
エルゼは溜息を吐きながら、仕方のないようにユストゥスの頭を撫でた。
慌てて紅茶と茶請けを運んできた世話係のハンナが、玄関で戯れている姉弟を見つけ、小声で叫ぶ。
「お嬢様っ!」
足音が響かないように気を付けながら、エルゼは彼女に近寄った。生まれた時からこの家にいるハンナは、エルゼやユストゥスにとってもう一人の家族だ。
「王都からのお客様ね?」
「はい。お嬢様を訪ねていらしたんですよ。今、旦那様と奥様とお話されています」
「じゃあ、一緒に入るわ」
「お部屋で仕度をされてからの方が……」
「お待たせするのは悪いし、ここで整えればいいわ」
硬い襟のブラウスとスカーフに、ふんわりとしたスカートは外出着だが、きちんと整えれば無礼なほど汚い格好ではない。あわよくば、きちんとドレスを着ていないことに落胆してくれればいいのに、とエルゼは内心思っていた。
「ですが……」
「いいの」
扉の向こうに聞こえぬように打ち合わせる二人の顔を、ユストゥスは交互に見つめる。
「若様は外で一緒に待ってましょうね。あとで余った焼き菓子を差し上げますから」
ハンナの諭すような声に、少年は元気よく頷いた。
手で髪の毛や衣服の乱れを直すエルゼに、ハンナが背後から皺や汚れがないかチェックをする。
仕度ができてハンナは大丈夫だと大きく頷き、ユストゥスは姉に力強くガッツポーズを送った。
「姉さま、頑張ってっ」
何をどう頑張るのか、彼女には杳(よう)として知れなかったが、キラキラと輝く弟の目に敵わず小さく何度も首を上下に振った。
それを確認して、ユストゥスは一足先に焼き菓子の待つ台所へ向かう。
ハンナが応接間の扉を三度、ノックした。その乾いた音を合図に、エルゼは背筋をピンと伸ばして顎を引いた。
彼女はフォイルナー伯爵令嬢の顔になっていた。