フォイルナー伯の治めるハイマート郷は、レヒト王国の中でも南部に位置する。ハイマートという村ができたのは、もう百年以上も昔だ。亜種との戦争の中、聖人フィデリオが貧しい農民とともに協力して開拓した、という歴史は、この村の人間なら誰でも知っている。現フォイルナー伯であるエルゼの父も、聖人に倣って農民と協力し村を治めている。そのためか他の貴族からは変わり者扱いされるが、この村で育ったエルゼには奇異な目で見られる理由がわからない。
実際……、と彼女は見渡す限りの風景を眺めた。山や森の多い王国南部にあって、眼前いっぱいに広がる草原と広い空は、掛け値なしに美しいものだと思う。村外れの水車の音や、パン焼き小屋から漂う芳ばしいにおいや、牧畜が草を食む姿のどこにも、歪な形は存在しない。隣で牛の背中を撫でながら歌うターニャを見て、エルゼはその思いを強くした。
「――で、さぁ」
家畜の様子を見て回りながら、ターニャが丸い目をキラキラと輝かせた。
「いい男だったんでしょ? その人」
彼女の後をついて歩きながら、エルゼは目を泳がせた。
「うーん、……まあ、恰好は」
曖昧に頷くと、ターニャはきゃあと高い声を上げて笑った。
ターニャはエルゼより一つ年上の村娘だ。彼女の父は村の長老役で、農民たちをまとめる代表の一人でもあった。エルゼが三歳の時、弟が生まれた。赤ん坊の世話で忙しい両親が、寂しくないようにと年の近いターニャを遊び相手にしたのが始まりだ。今思うと、年の離れた世話係を宛がわれるより、よっぽどよかった。ターニャの丸い茶色の目が輝いたり、少しぼてっとした唇が笑う様は、同性のエルゼにも魅力的に映る。若くて容姿の良い男に弱いけれど、気取らず飾らない彼女は、エルゼにとって身分を越えた親友だった。
「あのねえ、ターニャ。いくら相手がかっこよくても、さっき話したとおりだと、私は死んじゃうんですけどね! いきなり子ども産んでって言われてごらんなさいよ、気持ち悪いっ」
友人の危機にいまいち希薄な彼女に、エルゼはキリッとした眉をつり上げた。
ターニャは牧草を食べる牛の首元を撫で終わると、いつもの明るい顔で首を傾げた。
「あら。でも、エルゼは死んでも、子どもは残るんでしょう? エルゼも美人だし、その人も美形だし、どんな子が生まれるのかしら……。そしたら、あたしを使用人として雇ってくれる? あたし、頑張ってその子のお世話するわよ?」
瞳をうっとりとさせる彼女に、エルゼは溜息を吐いて首を振った。ターニャは少々、いや、よく周りが見えなくなることがある。今の彼女に自分の生死に関わる問題を訴えても、その言葉はもう片方の耳からそのまま流れていくだろう。
「こんな若くして死にたくないわよ。まだ十七よ? ……やりたいことだって、あるし」
遠くの牛たちを見ていたターニャが、エルゼの弱気な声に振り返った。
「前に言ってたこと? 王都に出たいって」
少し伏せ目がちな親友の顔を覗きこんで彼女が訊ねると、エルゼは頷いた。
「そう。王都に夢があるの」
小さな頃に初めて行った時のことを思い出す。この村とは比べ物にならないたくさんの人がいて、街を成す建物にすら華やかな装飾が施され、美しかった。馬車から眺めた、様々な絵の看板。王宮の目映(まばゆ)いばかりの調度品。廊下に掛けられた絵画の素晴らしさ。宮廷で会った一流の音楽家や画家、詩人たち。目を閉じなくても思い出す、ずっと憧れていた風景だ。
「初恋の人も、王都にいるしぃ?」
茶化すように上がった語尾に、エルゼは慌てて手を振った。
「ああ、それはそうだけどね。でも別に、本当に初恋ってだけだし。今はもう、なんとも」
エルゼの動揺した様子に、ターニャは満足そうに笑い声を上げた。
確かに幼い彼女は王都に行った時、そこで世話を焼いてくれた青年に恋をした。恋といっても、優しい兄のような青年に抱いた憧れが内実だ。もう彼に淡い想いは抱いていないが、それでもよく憶えている。燃えるような赤い髪や、優雅な物腰や、少し線の細い顔を。
「もし王都に行ってバッタリ再会しちゃったらどうする!? 十年ぶりに燃える初恋!」
きゃあ、どうしよう!と黄色い声で叫ぶと、ターニャは手をブンブンと振り回した。ちょうどそれが傍にいた牛の尻に当たり、その牛は驚いて走り出す。
「あ、ごめんっ!」
慌てて二人はその後を追った。牧草地は広大だが、牛が走って行った方向には人の通る道がある。怪我人が出ては大変だし、馬車や荷車が通っていたら迷惑をかける。
慣れた様子で軽やかに走っていくターニャの後を、エルゼが必死に走る。窮屈な靴で彼女についていくのは、至極大変だ。昔は一緒になって裸足で駆け回ったのに、と靴を脱ぎたくなったが、じきに見えてきた道に人影があることに気付いて、エルゼはその思いをぐっと我慢した。
「ごめーん、その子止めてー」
道を歩く二つの人影に向かって、ターニャが声を張り上げる。牛が走っている直線上にその人影がいることは、後を追うエルゼにもわかった。近づいていくと片方は長身の見覚えのある顔で、片方は深紅の外套を着た見知らぬ老人だった。
「クリストフ、牛止めて!」
ターニャの後ろからエルゼも叫ぶ。
長身の青年が老人を数歩下がらせると、すっかり混乱してしまった牛に掛け声をかけながら手で誘導する。下から首に手をやり、さすりながらゆっくり歩くと、走っていた牛は落ち着きを取り戻し、同じようにゆっくりとした歩調で牧草地へと向きを変えた。そのままターニャにバトンタッチし、彼女が全身を撫でて再び群れの方へ戻す。
一段落したところで、ターニャに追いついたエルゼは、彼女とともに青年に礼を言った。
「ありがとう、クリストフ」
長身の青年――クリストフは、おっとりとした顔で微笑んだ。
「なら、お礼にお布施を」
彼の言葉に、二人は顔を引きつらせた。
クリストフはエルゼとターニャの幼なじみだ。現在は神学校を出てヘルド宗教の修道士をしている。少し垂れた目は優しそうに見えるし、短く刈り込んだ髪や修道服を着た姿は堅実なイメージを与えるが、決してその通りではないと二人はよく知っている。
「その……、そう! この間の説教会の時、父様が……」
「今なら聖フィデリオの祭壇のロウソク、二割引にしとくよ〜」
めげずに『商談』を進めるクリストフに、相変わらずの商人(あきんど)め……、とエルゼは心中で一人ごちた。おそらくターニャも同じようなことを、内心呟いているだろう。
「あのさあ、クリストフ。貧乏なあたしたち農民からも、そんなにお金をぶんどるの? 英雄信仰が聞いて呆れるじゃないの」
なんとか商談を成立させまいと四苦八苦しているエルゼの横から、ずいとターニャが顔を出した。今は修道士と農民という身分だが、昔からの親友とあってターニャはクリストフに普段は敬語を使わない。いくら青年が澄ました顔で信仰を説いても、彼女はべそを掻いた顔もおねしょをした姿も知っているから、あまりありがたみを感じないらしい。
「ターニャ、だからこうして割安プランがあるんじゃないかぁ」
「アネル様に祈っても、ちっとも良いことないもん。フィデリオ様の方がよっぽど偉いわ」
じゃあ三割引、と指を立てて微笑むクリストフに、ターニャは肉厚の唇を尖らせた。
ヘルド宗教は英雄アネルを信仰するものだ。アネルは六十年前に終結した戦争よりずっと以前、まだ人間が国を持たなかった頃の人物だ。父が神で母が人間という半神半人で――この話は伝説の域を出ないが――、人々を一つにまとめあげ大きな国を作った偉人とされている。今はこのレヒト王国を含む三つの国に分裂したが、人間世界を確立した最初の英雄として多くの聖遺物や伝説とともに崇められている。
「娘さん、聖アネルを悪く言ってはいけませんよ。こうして我らが平和に暮らしていられるのは、あのお方のおかげなのですから」
突然のしゃがれ声にそちらを向くと、それは先程クリストフとともに歩いていた老人のものだった。髪と髭はすっかり白く皺も深いが、顔の色つやはよく健康そうだ。深紅の外套は細かい刺繍がびっしりと施され、大きさのためかどこか着させられた感がある。
「ドリーセン司教。申し訳ありません、お怪我はありませんか」
クリストフが慌てて頭を下げると、ドリーセンは小さく頷いた。
幼なじみの『ドリーセン司教』という言葉に、二人の少女は身を硬くした。ヘルド宗教の中にも神話の解釈を巡って、人間は選ばれた民だと謡う征服派と、他の種族とも親交を深めるべきだという共存派は存在する。その中でも共存派の有権者として名高いのが、ドリーセンだった。
エルゼはスカートを持って挨拶をし、ターニャは深々と頭を下げる。
「す、すみません。私、フォイルナー家の長女のエルゼと申します。司教とは知らず、とんだご無礼を……」
失礼をした時の言葉が、すらすらと伯爵令嬢の口から流れ出る。目上の者に会った時の所作として、幼少の砌(みぎり)から反射でできるほどに叩きこまれていた。
エルゼの名前に、ドリーセンがつぶらな目を一際大きくして彼女を見た。
「そうですか。今回は教会の視察だけですが、近々ご挨拶に伺いましょう」
今回のこともちゃっかり父の耳に届きそうだ、と少女はにこやかに微笑んだ顔の裏で溜息を吐いた。
「あ、あの、あたしも偉い方に失礼なことを言ってしまって、すいません」
「若い娘さんは老いぼれのことを知らないでも結構。しかし、聖アネルのことはもう悪く言わないでくださいね」
すっかり意気消沈してしまったターニャを、老人は優しい目で見つめた。彼女がしっかりと首を縦に振ると、
「では、聖アネルの祭壇に、ロウソクを。二割引にしておきましょう」
ドリーセンは二本の指を立てて、しっかりと『商談』を成立させた。
「さすがです、ドリーセン司教! 慈悲深く、かつ素晴らしい話運びっ!」
「修道士クリストフ、布教と信仰の資本はお金だよ。清貧を貫き通すことが、あのお方への愛ではない。聖アネルが成し遂げた人間世界の繁栄への貢献、それこそが愛だ」
「はい、司教!」
すっかり尊敬の目で司教を見ているクリストフと、とんでもない信仰心を説くドリーセンに、エルゼとターニャは苦い笑みを浮かべた。
「……やっぱり信用ならないわ」
あれだけ大人しくなっていたターニャも、二人に聞こえぬほど低い声でそう呟いた。
「そういえば、エルゼ姫」
ドリーセンが唐突に話を振ったことに、少女たちは今の言葉が聞こえたのかと再び姿勢を正した。
「伯爵のお屋敷に向けて馬車が走っていくのを見かけました。しかも、隻腕獅子の紋章の」
忍ぶように囁かれた声に、エルゼは目を瞬かせる。
「隻腕獅子って、王家の紋章じゃないですか」
彼女の思考が到達するより早く、クリストフが驚いて解答を述べた。その言葉を聞いたターニャは丸い目をさらに丸くした。
隻腕獅子は、リヒト王国の初代国王を示している。亜種との戦いで片腕を失ってなお勇猛果敢に先陣を切り、国と臣民を守ったその雄姿は、獅子にたとえられ王家の紋となった。
「大切な客人が来るとは、父からは何も……」
心当たりのないエルゼは、ただただ首をひねるばかりだ。誰か客人が来る時は、いつも両親が事前に知らせてくれていた。家族総出で準備をするのだから、嫌でもわかるものだ。
「昨日のと何か関係あるんじゃない?」
こそりと耳元で囁かれたターニャの声は、今にも踊り出しそうなほど期待に満ちている。まさか、とエルゼは肩をすくめたが、親友はそうは思ってないらしい。
「何?」
「クリストフにも後で教えたげる」
秘密を共有できずに小さく首を傾げた青年に、ターニャは得意満面に微笑んだ。
「私、屋敷に帰ってみますね。ドリーセン司教、教えてくださって、ありがとうございます」
別れの挨拶をすると、ドリーセンは片手を上げて応えた。
「早く行ってあげなさい。またの機会に、教会にお布施をすることをお忘れなく」
なるべくいつもの笑顔でその言葉を受け流し、エルゼは丘の上の屋敷を目指した。
「またねー! 今度、その話も聞かせてーっ」
後ろからターニャの元気な声が聞こえた。彼女の期待に添えるかはわからないが、昨日の夜から起こる非日常の出来事にエルゼは少なからずの不安と、そしてわずかな期待を抱いていた。本人も、気付かぬところで。