寝間着にガウンを羽織ったエルゼと黒い侵入者は、丸いテーブルを挟んで向かい合って座った。エルゼは完全に目が冴えてしまって紅茶でも淹れようかと思ったが、家族や使用人が起き出しては困るので、枕元の水差しで喉を潤すだけにした。
ランプの口を開け、中に『灯石(ドヒト)』を入れる。ランプ内の『光油(ケルツェ)』に浸されると、石は淡い光を放った。その光のもと懐中時計を見ると、一番光が遠い時間帯だった。少しの物音や声がやけに大きく響き、黙ると永遠のような静寂が支配する。
「俺はルケスキート・ヴィタ・ノクス」
それを考慮して、彼は静かで穏やかな声で口火を切った。
「私は、……既に知ってるみたいだけど、エルゼ・フォイルナー。
変わった名前ね」
同じく声のトーンを落として自己紹介をすると、聞き慣れない侵入者の名前にエルゼは首を傾げた。少なくとも彼女は、それと同じ名前を聞いたことがなかった。まるで異国の言葉のようだ。
「エルゼたちには珍しいかもね。呼ぶ時はヴィタと」
椅子に姿勢よく腰掛けて、侵入者――ヴィタは柔らかく笑った。テーブルを挟んでいるとはいえ先程より近距離で、エルゼは彼を観察する。言葉や表情は村に住む同年代の青年と同じ、幼さとあどけなさを感じるのに、物腰や容姿は精練されていてそれとは程遠い。エルゼは目覚める前に見た夢のことを思い出した。王都で自分の面倒を見てくれた、貴族の青年のそれに似ている。
「俺はノクス族なんだ。人間の言う、いわゆる、亜種」
『ノクス族』という、またもや耳慣れぬ言葉に眉を顰(ひそ)めた少女に、ヴィタが別の言葉で説明する。
「ようするに、人間じゃないのね、ヴィタは」
さして驚いた顔もせず訊ねるエルゼに、彼は頷いて耳元の長い黒髪を掻き分けた。漆黒の髪に隠れていた尖った両耳が現れる。エルゼの碧眼がその耳を捉えた時、わずかに丸くなったが、ただそれだけだった。大体、その容貌と物腰と今の状況から、人間ではないと言われても、あまり驚く要素がない。
「私、亜――人間ではない人を、初めて見たわ。その、……別の種族をこの国で見ることは、ないから」
細心の注意を払いながらエルゼが言葉を選ぶのを見て、ヴィタは目を細めた。この少女は、『亜種』という言葉が侮蔑の意を含んでいることも、その亜種に対して人間が行ってきたこと、そして行おうとしていることも、多少は理解しているようだ。人間が地上の支配権を手にしてから、彼らの間で『亜種』という言葉は一般化した。そこに種族の優劣を示唆し、下位の種に対する蔑視があることを、知らない者も少なくない。
「人間が六十年前の戦争でこの世界の王者になってから、亜種は随分と数を減らしたしね」
敵意も皮肉も含めずにさらりと言ってのけたヴィタに、エルゼは硬い表情のまま視線を落とした。
六十年前、人間は他の種族との永き戦いに勝利し、この世界の支配権を獲得した。エルゼも――もちろんヴィタも――その時は生まれてなかったが、それまでは暗黒の時代だったと聞いている。互いに住む土地を奪い合い、殺し合い、安心して眠ることもできなかったと。エルゼが五つの頃まで生きていた祖母は、毎日の食事と平和に感謝し、当時の戦いの悲惨さと亜種に対する罵言を声高に話していた。
その後、徹底的に亜種を排除しようという運動が試みられ、亜種は数を減らしていった。しかし若い穏健派が亜種との共存を訴え、今に至るまで、亜種殲滅を掲げる征服派と、亜種との共存を説く共存派による論争は続いている。エルゼ自身は、怖い思いをしないのなら、どちらでもいいと思っている。エルゼは戦争を知らないが、祖母の語る昔話はそれは恐ろしかった。寝物語に話されて、かえって怖くなり眠れなくなったほどだ。エルゼの父のフォイルナー伯は共存派だ。平和主義者で慈善家の父らしいと、娘は思う。
祖母の昔話の恐怖と向かいに座るヴィタの印象は、ちぐはぐだ。六十年で人間も亜種も変わったということだろうか。記憶に残る負の感情と、それを感じさせない青年に、居心地の悪さと申し訳なさを感じてしまう。
「ノクス族は六十年前の戦争で数を減らしたんだけど、その後、人間は俺たちの体が『万能薬(テリアク)』の材料になることを発見し、乱獲したんだ。――で、今は、ノクス族は俺と親父の二人だけに」
万能薬という言葉は、エルゼがうんと小さい頃に知った言葉だ。どんな傷や病気でも治せる妙薬だと、昔話の中に出てきた。魔術のにおいが漂うその言葉に、妖しい魅力と後ろめたい興味を抱いたことを憶えている。おとぎ話の世界のことだと思っていた。
自分の種族にされたことを、平然と『乱獲』と言うヴィタに、少女は眉根を寄せた。胸の辺りがぎゅうと苦しいのに、頭に浮かぶ映像は、去年の冬に父が森で兎をたくさん狩って来た姿だった。
「今は保護されてるけどね」
あまりに淡々と語る彼の姿を見ていられなくて、エルゼは静かに立ち上がりベッドサイドの水差しを手に取った。先程、水を飲んだはずなのに、喉の奥が貼りつくように息苦しい。
椅子に掛けたままヴィタが、エルゼ?と彼女の背中に声をかけた。少女はわずかに水を飲むと、ごめんなさい、と向かいの席に戻ってきた。
「だから、『絶滅』が『危惧』されている『種族』なのね」
彼が言っていた『絶滅危惧種』の背景を知り、ようやくエルゼは納得した。
「そう。だから子どもを産んでほしいんだ」
「うん、ごめんなさい。そこは唐突すぎて頷けないわ。
……確かに、同じ種族が貴方と貴方のお父様だけなら、そうなるのは自然なことだと思うけど……」
何故それが私なの? そう続けて問おうとした彼女に、ヴィタは首を横に振る。
「元々、ノクス族は男だけで、別の種族の女性に子どもを産んでもらうんだ」
エルゼはどうして?と小さく首を傾げたが、その答えを青年は持ち合わせていなかった。種がその種と成った起源など、個人がわかるはずもない。
彼は、小さな間を置いて続ける。
「人間にしてみたら、変わってるかもね。
別の種族の女性の胎で育った子どもは、すくすくと成長し、母親の腹を食い破って産声を上げる。その時、母となった女性は絶命してしまうんだけど、そういう種族はノクス族以外、聞いたことがないな」
うん確かに変わってるかも、とヴィタは自身の説明に頷いた。ふと彼が紫紺の瞳をエルゼに向けると、彼女はアーモンドのような大きな瞳を見開いて、時が止まったようにヴィタを見つめていた。
エルゼは、じわじわと手足が冷たくなっていくのを感じた。彼が訪れたことや、今こうして会っていることは夢の中の出来事のようだが、先程の言葉でさらに現実味がなくなる。ヴィタの言葉がふわふわと宙を漂う中、もしや自分は大変なことになりそうだったのではないか、と背中を嫌な汗が伝った。
だが、彼女の直感は否と言った。大変なことになってしまったのではないか、と。
それを振り払うように小さく頭を振ると、エルゼは額を押さえた。頭の重さを感じると同時に、彼の言葉も浮遊をやめ、エルゼの脳内に着地した。そうだ昔、木登りをして誤って落っこちた時に似ている、と彼女は思った。一瞬だけ感じる重力に縛られない解放感と、その後の衝撃、痛み。
「エルゼ」
その声が、急に怖くなったのは何故だろう。エルゼははっと彼を見て、戸惑い以外の表情を作ることができなかった。ヴィタは、自身の言葉がそれほど彼女の心に圧しかかったとも知らず、変わらない穏やかな視線をその碧眼に向けていた。
「……なんで、私なの」
絞り出した声は、とても弱々しいものだった。
どうして自分が、命を捨ててまで、今日初めて会った彼の子どもを産まなければならないのか。ノクス族が絶滅してしまえばいいとは、思わない。短い時間をともに過ごして、失礼な訪問ながらもヴィタを呪おうという気持ちは、これっぽっちもない自分がいる。しかし、彼の種族が生き残るということは、それだけ母になる人間が命を擲(なげう)つということで。
「なんで、って……どうしてだろう? 細かい理由は知らないけど、絶対条件は健康で、ある程度、家柄がいいこと。あと、死んでも支障のない娘であること」
指折り、条件を述べるヴィタの言葉に、エルゼはガタンと立ち上がった。静かな室内に椅子の音がやけに大きく響き、ヴィタは何事かと彼女を見上げる。俯いた顔から表情を読み取ることは難しく、彼はエルゼの旋毛(つむじ)を見ながら、綺麗な金髪だとぼんやり考えた。
「――帰って」
静寂に溶け込むような、低い声だった。怒気が前面に押し出されているのに、よく聞くと涙声だった。
下を向いたまま、エルゼは彼の手首を掴んだ。石膏のように白く整った手だが、触れてみるとわずかに温かい。種族が違っても血は通っているのだと再確認し、エルゼはやるせない気持ちになった。いっそ単なる悪霊や悪魔だったらよかった。
そのまま手をグイグイ引いて窓辺へと戻る。ヴィタは訝しげに彼女を見ながら、大人しく従った。手を離すと、今度は背中を押してバルコニーの外へと向かわせる。
「エルゼ、」
「帰って」
何が彼女を怒らせたのかわからないと、ヴィタはわずかに抵抗を見せた。が、エルゼは構わずに力いっぱい彼を部屋から締め出そうとする。本気で踏ん張れば少女の力など及ばなかったが、青年はそうすることも気が引けて、とうとうバルコニーまで追い出された。
「また明日、来るよ」
囁いた声は、彼女に届いただろうか。エルゼは怒っているのに泣きそうな顔をして、バルコニーの大窓を閉めた。母の言いつけどおり、きちんと鍵もかける。顔を見られたくなくて、カーテンを急いで閉めると、エルゼはそのままズルズルと床に座り込んだ。月明かりの届かない室内は、黒い黒い闇だった。
彼自身が悪いわけではない、自分に言い聞かせるように、少女は心の中で呟いた。ただ、その言葉がどうしても許せなかった。彼は知らない、彼女の立場を言い表していたから。
落胆、安堵、溜息を吐きたかったのに、何かを吐き出すと一緒に涙も零れてしまいそうで、エルゼは口を真一文字に結んだまま、ゆっくりとベッドに戻った。