エルゼは、母の忠告を聞かなかったことを今更、後悔した。
母はエルゼが小さい頃から、夜はきちんと窓に鍵をかけるように、と厳しく言っていた。夜は森に住む悪霊たちがやってくるから、彼らを決して家の中へ入れてはならないと。幼い頃は夜の闇に怯え、毛布を深くかぶって眠りについていたが、両親への反抗とともに、その言いつけも効力を失った。やけに信心深い母の言葉だと、そう等閑(なおざり)にしていたのだ。
バルコニーに続く大きな窓は開け放たれ、入ってきた冷たい風にカーテンがヒラヒラと舞う。もう春になるというのに、夜風は凍えるようだ。その窓辺に浮かんだ黒い影から、エルゼは目が離せなかった。
漆黒の長い髪と見慣れぬ黒い長衣は夜の闇に溶け込み、彫刻のような顔と同じく整った手足だけが、月の光を受けて白く浮き出て見えた。手首や足首には奇妙な紋様が描かれていて、妖しい黒魔術師を思い起こさせる。年の頃は同じくらいだろうか、と彼女は踏んだが、それより幼くも大人びても見えた。悪魔や悪霊はとても美しい姿をして人々を惑わす、と母が言っていたことを思い出した。魅了されないように、心を覗かせないように、瞳を合わせてはいけないと。その言葉を記憶の底から引き上げた時にはエルゼは、すでにその紫紺の瞳を見てしまった後だった。切れ長の目や通った鼻筋、形の良い眉や唇で作られた顔は、石のように冷たいのに蠱惑的な印象を与える。
得も知れぬ恐怖が、彼女の心を支配した。私はどうなるんだろう、殺されるんだろうか、呪われるんだろうか、それともさらに恐ろしいことが待っているんだろうか。
「こんばんは、エルゼ」
涼やかなテノールが、その唇から零れる。
打開策を考えながら、エルゼはなるべく強く彼を睨みつけた。隙を見せてはいけない。そう思うと、我知らず胸元のシーツを握る手に力が入る。
金色の長い髪に、碧色の双眸。アーモンドのような瞳、凛とした眉、色白だが健康そうな頬。彼は、確かに『エルゼ』だ、と頷いて、部屋の絨毯に浮かんでいた足をついた。
睨みつける少女の視線を気にすることなく、彼は小さく笑みを浮かべる。突然見せた柔らかな表情にエルゼも怪訝そうな顔をするが、警戒心は増すばかりだ。
「俺の子どもを産んでくれないか?」
あまりに唐突な言葉に、彼女はぽかんとした。
「…………は?」
次の瞬間、眉間に皺が寄るほど険しい顔をし、ベッドの上を後退る。と言っても、すぐに壁際に行き当たってしまうのだが。
少女はサイドテーブルの引き出しに、護身用の短剣が入っていたことを思い出した。人ならざる者に効くかどうかは定かではないが、脅しくらいにはなるだろう。とにかく逃げられればいい。悪魔だか悪霊だかに襲われるくらいなら、寝間着で裸足のまま教会に走る方がまだマシだ。
「絶滅危惧種なんだ、俺」
そんなエルゼの様子に気付いているのかいないのか、黒い侵入者の言葉は、彼女をさらなる混乱に陥れた。
「……絶滅危惧種?」
聞き慣れない言葉だった。少なくとも、エルゼには。あれほど警戒していたのに、声を発して訊き返してしまうほどに。
「そう、絶滅危惧種。……あれ? ああ、そうか。まだ……」
「……貴方、森に住む悪魔や悪霊じゃないのね?」
一人でブツブツと呟いている侵入者にそう問うと、彼ははっきりと首を縦に振った。その『絶滅危惧種』がどんなものなのかは知らないが、悪魔の類いのように人を惑わせる目的はないようだ。
まだ安全とは言えないものの、侵入者が徐々に実態を持ってきたことによって、エルゼは小さな安堵を覚えた。今の彼は、最初に見た冷たい顔からは想像もできないほど、人間的だ。話す言葉も同じ年代の青年のようで、そこに何か裏や罠があるようには思えなかった。
「エルゼ」
名前を呼び、近付いてこようとする彼に、エルゼは片手を突き出した。手で制されて、その黒い影は動きを止める。短剣がなくても相手の動きを制することができる状況に、彼女の恐怖はなくなっていった。エルゼは手を突き出したまま、ベッドから起き出した。裸足のまま踏む絨毯は、思った以上にひんやりとする。
体の正面を向けたまま移動する少女に、彼は首を傾げた。
「エルゼ?」
「そのまま待ってて。今、自警団呼んでくるから」
襲われるのではないかという恐怖はなくとも、詳しい事情や経緯(いきさつ)、正体を掴めていない不安はある。『絶滅危惧種』である彼が何故、子どもを産んでくれと夜中に部屋を訪れたのか。よくよく考えてみると身も凍るような状況に、エルゼは人知れず戦慄を覚えた。
表面は冷静に言い放った彼女の言葉に、侵入者は小さく目を見開いた。切れ長の目が忙しなく動く。初めは、彫刻のように無機質な美しい顔だと思っていたが、この短時間に随分いろいろな表情を見た、と少女は思った。
「その……、自警団は、ちょっと」
「じゃあ、教会に行く? 『絶滅危惧種』っていうのには、お祓いは効くのかしら?」
完全に恐怖がなくなったエルゼは、アーモンドのような双眸で彼を見上げた。
「いや、できればそれも。内密にできないかな」
「夜中にレディの部屋に来たことを? 確かに私は何もされていないけど、でもこのまま素直に頷けると思う?」
言葉にしていくと、だんだん怒りがこみ上げてくる。彼女はいよいよ腰に手を当てて、その侵入者を強く睨みつけた。
「わかった。話すから、そんな目で睨まないでくれ」
黒い侵入者はついに、諸手を上げて降参した。