プロローグ



 死んでいる、とマリソルは直感的にわかった。
 ドアの隙間の狭い視界でも、決して近くない距離でも、床に伏した父が事切れていることを、少女は言い表せない感覚で理解した。
 夜更けに、裏の勝手口からこっそりと屋敷に帰ってくるのは、マリソルの日常だ。表の玄関を使うことは、昼間であろうとそう多くない。普段から静かな廊下を歩き部屋へ帰る途中、父の書斎からガタンッと物音がした。大きな音を出す父ではないから、彼女は何事かと肩を跳ね上げ、書斎のドアの隙間から、恐る恐る中を覗きこむ。
 向かいの壁側にある机の近くで、父は倒れていた。うつ伏せているため顔全体は見えないが、身体が息を吸うように動く気配はなく、少女の本能はそれが生きていないことを知らせた。頭が空っぽになる。無意識に口がだらりと開いて、足が一歩、前へ踏み出そうとする。
 閉じた喉から声を絞り出そうとした時、隙間の景色に別の人物が現れた。背の高い男性の後ろ姿。手にエメラルドのような深い緑の宝玉を持っている。それを懐にしまうと、彼は父に歩み寄り、跪いてその様子を確認した。捕まえなきゃ、逃げなきゃ、二つの命令で体が動かない。
 前触れもなく、その男が振り返った。目が、合う。緑――
 気付くと、マリソルは無我夢中で走っていた。書斎の前を飛び出し、裏の勝手口へと向かう。ヤバいヤバいヤバいヤバいってヤバいからヤバいヤバいヤバいヤバい、――殺されるっ!
 頭の中はその言葉だけになり、動悸が激しくなる。夜遊びの疲れも足のダルさも吹っ飛び、曲げる度にガクガクと崩れそうになる膝で懸命に走った。
 先程かけた鍵を震える指で乱暴に外すと、扉を閉めるのも忘れ、転がるように外へ出る。張りつく喉も、狂いそうなほど鼓動する胸も、壊れるならそれでいいと思いながら、マリソルは垣根の扉をくぐり、路地を駆けた。どこへ行けばいいのかなんて、わからないのに。自警団? 役所? 裁判所? さっきまで一緒だったアニタやリノのところ? 悲しみでも怒りでもなく、怖さで涙が滲んでくる。
 いつもの習性で足は勝手に繁華街の方へ向かっていた。とにかく、人! 誰か、誰か――
 走るマリソルの腕を、後ろから誰かが掴み、引きつった口を塞いだ。