二つの舞台
1
ベアトリス劇場は、コルミーヨの街でも古い部類に入る劇場だ。その上手にある、個室のバルコニー席。そこでルアナ・アルバスは今宵、古典悲劇『鳥籠城』を観ていた。
『鳥籠城』と呼ばれる城には、周囲から狂人王と呼ばれる冷酷なヴィルジール王が住んでいた。誰も信じず、使用人を人として見ない王は、失敗をすれば、容赦なく使用人の首を刎ねた。そこに、ある日、カロルという女性が、奉公という名の生贄として来るところから、話は始まる。
バルコニー席には、ビロードが張られた席が四つ並んでいる。ルアナが座る座席以外は、全て空席だった。元々、この席は取引先の老紳士から貰ったものだったが、彼女は年頃の若い実業家の一人も誘わずに、この芝居を観に来ていた。普段ならば、こうした席に取引相手の若い商人を誘い、有益な情報を引きずり出す駆け引きをするのに。武器商人の家を守るための人間関係に、少し疲れていたのかもしれない。
狂人王ヴィルジールは、やがて聡明なカロルに心を開いていく。しかし、やはり使用人を人として見られない彼は、カロルの心に暗い影しか落とさないのだった。
「お前に魂まで捧げるというのに、何故わからぬか!」
舞台の上では看板役者が、静かに泣くカロルに、そう叫んだ。彼女が欲しいのは、ヴィルジールの心や魂ではなかった。自由だった。まして、カロルを対等な人間と見ないヴィルジールが『魂を捧げる』と言っても、それは傲慢な言葉にしか聞こえなかった。
「野の鳥の羽根を切り、鳥籠に入れたのと同じ。私は空に焦がれるばかりで、それ以外にはありません」
この城は、まさしく彼女を閉じ込める鳥籠の城だ。そして、狂人王の狂気を入れ置くための、鳥籠。
ルアナは覗くオペラグラスから見えるカロルの涙に、ふと視線を外した。着飾った婦人たちから浮くような、飾り気のない、しかし上質な自身のドレスが視界に映る。
自分の意に沿わないカロルに、ヴィルジールはついに剣を振りかざした。たった一度、焦がれた相手を自分の手で殺め、彼はさらに狂気の淵へと堕ちてゆく。
ルアナは一人、バルコニー席でため息を吐いた。
「たとえ相手と想いが通じないのならば、恋情など無い方がいいのかもしれないわね」
ぼんやりとした口調で、彼女はそう呟く。
「そうでしょう? ヴェルデ」
「……」
バルコニー席の入り口扉の横、照明も照らさない陰に、金色の髪の背の高い男がいた。入口からルアナを守るように、その背中を見つめている。
「……ルアナ様の仰せの通りで」
観劇の邪魔にならない大きさの声で、彼は答える。
さらに狂気の人となった王に、城は荒れ果て、そして最後には、狂人王ヴィルジールの怨霊だけが棲みつく古城となってしまう。
不気味なヴィルジールの笑い声とともに幕は下り、観客からは盛大な拍手が送られた。
席を立ち、同じように拍手をしながら、ルアナは一人、物思いに耽る。
(想っても通じないのならば、わたくしもいつか、殺すのかしら)
視線は、舞台で拍手に応える役者に向けたまま、背後の人物の気配を探る。常に彼女の傍にいた、『わたくし』のお人形。小さい頃、父がルアナのために買ってきた、人間ならざる奴隷。――想いが通じない、通じることはない、相手。
この想いが一生、表に出ることはないと、叶うことはないと知りながら、それでも抱く感情。
(それでも傍にいなさいと、言えるかしら)
彼の近くにいるとにおう若草のようなにおいは、ルアナの心の奥底に繋がっている。彼女が決して誰にも見せることのない、心の底の言葉へと。
劇中では決して結ばれることのないヴィルジールとカロルの俳優たちは、晴れ晴れとした笑顔で互いに抱きしめあい、劇の成功を喜んでいた。
2
時は経ち、場所も変わり、ここは港町ボカ。今は春、一連の事件が収束し、季節が幾つか流れた後だ。
ボカを統治するパドル家の屋敷で、マリソルは喜びを隠しきれない声で、向かいの席の男に叫んだ。
「『ヒルベルタ』が再演するの!」
それはもう楽しくて仕方ない、そんな華やぐ声に、向かいの席の男――ディノは、しばし固まった。同じテンションではしゃぐこともしないし、かと言って、その喜びを否定するつもりもない。要は、リアクションに困ったのだ。
「……そう、よかったねえ」
とりあえず頷き、彼女の歓喜を肯定する。
「この街にも来るの?」
「くるよ! もうすぐ! あぁ~、どうしよう! あの服で見に行くべき? っつか、おっさんも行く?」
『あの服』とは、ディノと旅をしていた時の恰好のことだ。それは、彼も理解していた。今から二年ほど前、若者の間で流行した、『ヒルベルタ・ファッション』だ。肩と胸元を出したヘソ上のビスチェに、太腿を晒す短いパンツの、娼婦のような恰好だ。その衣装に加えて、隈取りのように派手なアイメイク。今ではすっかり廃れたファッションだが、再演をきっかけに再燃するかもしれない。
(まだ持ってたんだ……)
英雄である彼女の父が殺害された事件がきっかけで、犯人から追われる身となり、ディノと一緒に旅をしていたマリソル。その間、ひどく目立つという理由から、ヒルベルタ・ファッションをやめていた時期もあった。後に派手好きは彼女の本来の性格であるとわかるが、それでも『あのファッション』からは卒業したとばかり思っていた。
(勝負服みたいなもんかね……)
「……ん?」
ふと、ヒルベルタ・ファッションに思いを馳せていたディノは、彼女が最後に言った言葉をようやく思い出した。
「……俺も行くの?」
「せっかくだし行こうよ。おっさんでも、フツーに面白いと思うよ」
確かに主人公・ヒルベルタの過激な衣裳で有名だが、内容も人気だからこそ、若者の間でファッションを真似する流行ができたのだ。聞きかじった話では、スラムに住む少女・ヒルベルタが、やがて王国革命の渦に巻き込まれていく、という物語だったと、ディノは憶えている。
目を輝かせるマリソルに、彼は歯切れ悪く答えた。
「いや……お兄さんは、この旅の服しかないから。一張羅もないし」
と、自身の小汚い傭兵の服と鎧を見やる。それに、いくら最近では紳士も観に行くようになったとはいえ、芝居は女子供のものだ。その圧倒的少数の立場は、居心地がいいとは決して言えないだろう。
「古着屋にある、ちょっといい服くらいでいいって」
『ヒルベルタ』自体、古典劇ではなく大衆演劇のため、堅苦しい恰好をしてくる方が、かえって変だ。今もなお男性の観客は少ないが、晩餐会に行くような服を買え、というわけではない。
「でも、金ないしねえ……」
「じゃあ、あたしが出したげる! たまにはパアッと遊ぼうよ」
その言葉に、アレ、とディノは心中で首を傾げた。
(もしかして、気を遣わせてんのかな)
事件の後、彼女は自分の立場なりに、この旅で見てきた農村や植人(フランタ)の状況を変えようと努力している。そして、その手助けをディノはしてきた。ボカの街の行政もある中、そうして働くマリソルの代わりに、他の村や町を回りながら。
この少女は、その労いをしているのではないか。そんな思いが、今の言葉からしてくる。
「……んー、じゃあ、観に行こうか、『ヒルベルタ』」
「ホント!?」
再演の報せの時と同じくらい、マリソルの顔が輝いた。それはもう、ボカの街の太陽のように。
いくら貴族のマリソルとスラム育ちの傭兵である自分が、身分が違うとはいえ、随分年下の彼女に金を出させるのは、ディノの中で幾分か極まり悪い思いはする。だが、それで彼女の心が晴れるのならば、自分の気持ちを少し抑えるくらい、どうということはない。
「さっそく、チケット取るね!」
嬉しそうに公演のチラシと睨めっこする彼女は、ボカの統治者といえ、まだ幼い子どものようだった。その様子に、ディノの頬も緩む。
「それでさあ、今回のライネリオ役、リカルド・オリヴィエなんだ~❤ マジ見に行かなきゃ!って思ってたんだよね~」
ライネリオというのは、主人公・ヒルベルタと恋仲になる革命軍のリーダーの名前だ。リカルド・オリヴィエは王都でも人気の俳優で、二人は一度、彼についてケンカをしていた。
「お兄さんは、あんな童顔俳優、認めませんよ!」
美形(イケメン)だと歓声をあげるマリソルと、顔だけのメロドラマ俳優だと忌み嫌うディノ。もしかしてリカルド目当てで、自分への気遣いなどないのか?と訝しむ男に、マリソルはどちらとも取れる笑顔を見せた。
「まあ、いいじゃん。パアッと遊べれば」
その笑顔は、目当ての俳優がいるからか、いつも働いてくれるディノへの感謝のためか、太陽のように輝いていた。おそらく後者であることを願って、演劇をめぐるささやかな物語は幕を閉じる……。